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法的なものの見方・考え方の教育


平成26年11月9日(日)

法的なものの見方・考え方の教育

-立憲主義の学習を素材に その1

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こんにちは。

神坪浩喜です。

久しぶりの更新となります。

というのも、ホームページをリニューアル工事中で、しばらく更新ができなかったきなかったからでした。新しいホームページはいかがでしょう。とても見やすく、スッキリしたかと思います。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

さて、京都大の土井真一先生が、「法的な見方・考え方の教育-立憲主義の学習を素材に」

と題して法教育シンポで講演をされた講演録を読みました。

「憲法・個人の尊重・立憲主義をどのように伝えるか」について、なるほど~と思いましたので、ご紹介させてください。

法、個人の尊重、憲法、国家、共同体、人、幸福、正義、民主主義、基本的人権

といったキーワードがどうつながっているのかを意識いただけると分かりやすいかと思います。

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法とは何か、と問われれば、それは多様な人々、つまり、いろいろなものの見方、考え方をする人たち、利害関係が複雑に絡み合っている人たちが互いに協力をしながら、自分らしく生きていく上で生じるさまざまな問題に対処するためのものです。

幹にあたる法的なものの見方、考え方を学ぶためにはその根源にある、われわれ自身が抱えるさまざまな問題について立ち返る必要があります。

われわれ自身が、われわれの社会がどのような問題を抱えているのか、なぜそのような問題が生じるのか、そうした視点に立ち返って、法を考える必要があるわけです。

憲法教育で重要なのは、立憲主義、国民主権、権力分立、基本的人権の尊重などの憲法の基本原理、概念、これをどのように学ばせるかということです。

憲法あるいは立憲主義を学ぶ上で、最も重要な問いは「憲法とは何か」という問い、あるいは「立憲主義とは何か」という問いになります。憲法とは何か、ということに対して、定義で答えるのであれば、「国家の基本法」ということになります。

ただ、憲法というのは人間の実践、あるいは人間の行為が作り出したものですから、憲法とは何かという本質を問うことは、

なぜ人は憲法を必要とするのか?

・なぜ人はそもそも国家という共同体を作るのか?

そしてその問いは、究極的には、

・その国家を構成する私たち人間とはどういう存在なのか?

を問わなければなりません。

1 私たち一人一人がどのような存在なのか、何を求めて、どのように生きようとしているのかをまず最初に考える。

2 次に、そのような人間が、なぜ共同して国家を作るのかということを考える

3 そして、国家を作る上において、なぜ憲法が必要となるのかということを考えて

4 最後に、そのような意義を持つ憲法において、いったい何を定める必要があるのかを導き出す。

このような論理で憲法を考えるということが、「立憲主義を考える」ということです。この思考の論理をもう少し詳しく見てみましょう。

1 私たち一人一人がどのような存在なのか、何を求めて、どのように生きようとしているのか?

私たち一人一人が人間として、何を目指して生きていくのかという問いから話を始めます。

実は国家を考える上において、私たち一人一人から始めるということ自体がとても大切なことなのです。

これが「個人の尊重」です。

まず国家があって私たちを考えるのではなくて、私たちを考えて、その私たちが作る国家を考えるという、この順序自身が最も重要な憲法の思想なのです。それをまず理解してもらう必要があります。

何のために生きるのか、よく生きるとはどういうことなのか、幸福とはいったい何なのか、

幸福は単に快楽を意味するのか、それとも快楽を超える何かがあるのか。善き人生、幸福な生き方とは客観的に決まることなのか、それともひとり一人によって異なることなのか、自分らしく生きる自由は、幸せにとってどれだけの意味があるのか。

自分のためだけはなく、他の人々のために役立つことによって得られる充実感、これもまた幸福なのではないか・・・といったことを生徒の皆さんには最初に真剣に考えていただく必要があります。

このように善き生き方、あるいは幸福の問題を自己の在り方と結び付けて考えてもらうこと、

これこそが憲法の基本原理である「個人の尊重」の原点を考えてもらうことなので、ここで手を抜いては困ります。

(つづく)

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なるほど。順序が大切。

まず人から考える。個人の尊重が目的であり出発点。

そのための共同体、そのための国家であるということ、

共同体や国家のための個人ではない、

個人の幸せのための憲法であるということ・・・ですね!

 

第○回の調停を始めます!

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平成26年8月30日(土)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

気がつけば8月もおしまい。ぐっと涼しくなる日も増えてきました。

庭にはシュウメイギク(秋明菊)も咲いています。

 

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調停をやるときのことですが、何回か期日を重ねた調停スタートのとき、記録をみながら、これまでの期日回数を確認して、

「では、第○回目の調停を始めます!どうぞよろしくお願いいたします」と開会宣言をしています。

 

それは当事者の方に「さあ今から、話し合いをしますよ」という意識を高めることと、これまでの回数を確認して、今日の期日は、これまでの話し合いの積み重ねの後に続くものであることを、意識してもらうためです。

 

さらに期日を何回も重ねている場合には、

「いや、もう○回目ですか。これまでお互いによく話し合ってきました。今日まとまるといいですね」等とお話して、当事者の方々に「そろそろ終わりにしたいな」「あともう少しだ」という意識を高めてもらいます。

 

長くやっていると、対立していた相手方とも、どこか解決を目指そうとする一種の共同体意識を持つこともあるので、これまでの話し合いにかけてきた時間や労力を確認してもらって、その意識を刺激しようとした質問です。

 

序盤は、対立モードであっても、お互いに言いたいことをガンガン言い合って、伝えたいことを伝えあってみると、双方が「もうそろそろ終わりにしようか」みたいなムードになることがあります。

 

そんなタイミングで、「これだけ話し合いをしてきました」「これまでよくがんばりましたね」的な言葉が、効いて合意形成を後押しすることもあります。

 

青春ドラマで、男友達同士が、とっくみあいの喧嘩をして、お互い疲れ果て、草っぱらで二人寝ころんで、はあはあ息を切らしながら、顔を見合わせ「お前もなかなかやるな」と笑顔になっているような感じ??

 

・・・って違いますか(笑)

 

それでは、また。

複数のスポーク

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平成26年8月14日(木)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

暑い日が続いていますね。

 

夕食のとき、妻がこんな趣旨のことを言いました。

 

 『仕事が辛い時、自分には幸せな家庭があると思う。

家庭がうまくいっていないとき、自分にはやりがいのある仕事があると思う。

 

 一つのことに依存してしまうと、それがうまくいかないとき、とても辛くなってしまう。

仕事、家庭、友人、趣味、お金・・・車輪のようにいくつかのスポークがあるとそのうちの一つがうまくいかないときも、他のスポークが自分を支えてくれる。車輪がまわる。

 だから、一つのことに依存せずに、複数の支えをもつといい。』

 

は~なるほど。なかなか、いいこと言うなあ。

 一つのことに集中してしまうと、それがうまくいかなかったとき、すべての自分がダメなような気になります。

でも実際は、いろいろなことに支えられて、生きているものです。

 

なにもかもうまくいかないとき・・・

仕事がうまくいかず、妻の機嫌も悪いとき・・・

 

それでも私にはかわいいマリがいる。

うん、そう思うことにしようっと(笑)

 

 それでは、また。

嫉妬心とのつきあい方

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平成26年7月27日(日)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

毎日、暑い日が続いていますね。

昨日は、仙台弁護士会のジュニアロースクールでした。

今年も、若手の弁護士さん達ががんばりのおかげで、素晴らしいものができたと思います。

参加してくれた中高生の生徒さんたちもきっといい夏の法律家体験ができたことでしょう。

 

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さて、今日は、嫉妬心についてのお話です。嫉妬心、やっかいで面倒くさい感情ですよね。心がざわつき、穏やかでなくなります。

誰かのことを面白くないと思い、そのように思ってしまう自分のことも嫌になってきます。嫌だなと思いつつも、どうしても湧いてくるものです。

 

何とやっかいなんでしょう。

 

「嫉妬のお作法」(フォレスト出版)という本で、心理カウンセラーの川村佳子さんは、嫉妬心が湧き起こったときに、まずやること、として次のようなことにお話しています。なるほど!と思ったのでご紹介しますね。

 

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嫉妬心を抱いたら、その感情をよく見つめます。

 

感情に「良い」「悪い」という判断基準はありません。

ですから、「良い」「悪い」の判断をせずに、ただそのまま感じてください。ただ、じっとよく見つめて、感じる。

 

例えば嫉妬という大きな湖があったとします。

「じっと見つめて、感じる」とはその湖に飛び込むわけでも、その湖をどうにかしようとするわけでもなく、ただその湖の淵に座っているイメージです。

何もせずに、あるがままに、その湖を見つめる。

 

感情は、あるがままにしておかないと、だんだん大きくなり、もっと苦しくなります。

嫉妬といったわずらわしい感情は、抑圧したり、無視したりしようとしがちです。

しかし、抑圧された感情は、大きくなり、いずれ変形された形で表へ出て、もっと苦しくなるものです。

 

内側になにか感情があると気づいたときには、無視したり、抑圧したりするのではなく、その感情をよく見つめて、感じたあとに、その感情に向かって挨拶してみてください。

 

嫉妬心もあなた自身の一部だと思って、「こんにちは」と挨拶をしてみてください。

「うらやましかったね」「悔しかったね」と自分に声をかけてみるのです。

これがとても大切です。

 

善悪などの判断基準を設けると、必ず自分か他者を責めることになります。

嫉妬心を取り除こう、無視しよう、この感情と徹底的に議論しよう、そう願って戦っても、うまくいきません。戦いに勝つことはできません。

 

なぜなら、私たちが感情を持つかぎり、嫌な感情だけを取り除くことは不可能だからです。

 

嫌な感情も大事な自分の一部として丁寧に扱う。それは、ありのままを認めるということです。

 

あなたの中で嫉妬心が湧き起こったとき、ぜひ試してみてください。

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なるほど。

 

ネガティブな感情も、わずらわしい感情も大事な自分の一部。

抑圧したり、排除したり、無視したりすれば、グレたり、すねたり、さらには暴れたりするかも知れません。子どものようなものですね。

 

存在を認めて「こんにちは!」と挨拶してあげてあげると落ち着くのかも知れません。

 

今度、誰かに対して嫉妬心が浮かんだ時、ちょっと試してみてはいかがでしょう?

 

それでは、また。

本当は仲直りがしたいのに

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平成26年6月15日(日) 
 
こんにちは。
 
神坪浩喜です。
仙台は、しばらく雨模様だったのですが、この週末はよい天気に恵まれました。
庭のクレマチスも日の光が嬉しそうに咲いています。
 
さて、ささいなことで大切な人と喧嘩をしてしまって、ギクシャクしてしまうことってあると思います。
そんなとき「相手が先に謝ってくれたらいいのに」だなんて、考えてしまいますよね。
 
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今日もまた声をかけることができなかった。
些細なことで喧嘩をしてしまい、君とギクシャクしている。
 
確かに、僕にも悪いところがあった。
でもあんな言い方をしなくてもいいじゃないか!
 
僕を怒らせた君のこんなところが悪いのだと思い、
僕は悪くないんだ、間違っていないんだ、と思いこもうとしている。
ひっこみがつかなくなって、僕が怒っていることを君のせいにしている。
 
本当は、自分にも過ちがあることを知っているのに・・・。
 
君が、先にあやまってくれたらいいのに
そうしたら、僕も素直に謝ることができるのに
 
なぜ謝ってくれないのだろう。
自分から謝るのは、負けを認めるようで嫌だ。
君の方が悪いのにどうしてこちらからなんだ!
 
でも・・・。
 
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そうか。
でも、やっぱりキミは本当は、仲直りしたいんだよね。
 
相手に先に謝ってもらうことが目的じゃない。それが仲直りの条件でもない。
仲直りっていうことを一番の目的にするなら、どうしたらいいのだろう?
 
それは、自分の過ちを、相手に転嫁して正当化しないこと。
相手のせいにしたりせずに、自分の現実をありのままに受けとめることが大切だ。
とても痛いけれどね。
 
心の底で、それは自分に問題があることがわかっているのに、それを見つめるのが怖くて相手のせいにしてしまうことがある。
それを相手にぶつけてしまって関係をギクシャクさせてしてしまう。
 
だから、自分の問題を、しっかり受けとめることが大切なんだ。
 
仲直りしたいと思っているのは、相手も同じかも知れないよ。
いや、きっとそう思っていることだろう。
 
相手もキミが声をかけてくれるのを待っていることだろう。
 
先に「ごめんね」「悪かった」と言ってしまおう。
こちらから声をかけよう。
ちょっと勇気がいるけどね。
 
でも、ここが勇気の見せどころだ。
 
 
本当は仲直りしたいという気持ちを大切にしてください。
 
(おしまい)
 
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二人の間に深い溝ができる前に、仲直りしたいという気持ちを、素直に表現できるといいですね。
 
それでは、また。

民事調停-交通事故過失割合が争点になっているときの進行について

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平成26年5月25日(日)
 
こんにちは。
神坪浩喜です。
先日、裁判所で民事調停委員の方々を対象に、交通事故事件で、過失割合が争点になっているときの調停の進め方や留意点について、お話させていただく機会がありました。
 
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「交通事故過失割合が争点になっているときの調停の進行について」

 ◎調停の流れ
    ① まず結論となる主張の確認 例0:100←→30:70
    ② 次に前提となる事故状況は同じか(事実にも食い違いがあるのか?)
    ③ 前提となる事故状況が同じなら評価の問題へ,違うなら具体的相違点と裏付け証拠の確認へ
    ④ 評価の問題では,基本となる別冊判タの図が使えるか,共通するか
    共通するなら修正要素の評価の問題へ
    ⑤ 当事者双方に相手の言い分と理由,出された証拠をふまえて解決案の提示依頼
    ⑥ 当事者提案で合意調整ができなければ,調停案の提案を検討(過失割合以外の他の争点や合計金額とのバランスも考慮して)
   
1 交通事故で過失割合が争点になることはよくあります。そしてそれは時に熾烈な争いとなることもあります。
    これは調停における主張・争点整理一般に通じることですが,過失割合が争点になっているときは,特に「当事者の主張の食い違いは何か」「事実の食い違いか評価のくい違いか」「事実の食い違いがある場合,裏付け証拠はあるのか,あるとして何か」を確認して,ポイントをしぼって話し合いをしていくことが重要と考えます。

2 まず結論としての当事者双方の主張を確認します。結論として過失割合は何対何だと主張しているのか。
    例えば,申立人は,申立人0:相手方100と相手方に一方的に過失があり,当方には過失なしと主張しているとしましょう。
    次に,その前提となる事故状況はどのようなものなのかの確認です。図面に基づいて主張していただきます。
    そして,その事実を前提にすると,別冊判タ緑の本や赤本の過失割合の図のどれに該当して,0:100になるのだと評価の根拠を示してもらいます。
    申立人の主張を相手方に伝え,相手方の主張(結論と理由)を確認します。
    例えば,相手方は,申立人にも一定の過失があり30:70を主張しているとしましょう。
    やはり,その前提となる事故状況はどのようなものなのか,状況については申立人の主張どおりなのか,違っているのか,違っているとして相手方が主張する事故状況はどうだったのかについて確認します。
 
3 事故状況が同じものであれば,事実に食い違いはなく,評価の問題になります。
    事故状況の認識に食い違いがある場合には,事実の問題として,事実認定が必要になります。申立人の事実認識と相手方の事実認識とで具体的にどの部分が違っているのかを確認します。
    その上で,申立人はどのような根拠から自らが主張する事実が正しいといっているのか,裏付け証拠があるのかを見ていきます。相手方についても同様です。警察が作成した実況見分調書やメモがあると,それは有力な証拠になるでしょう。
    その他スリップ痕,車両の破損状況,怪我の部位,現場の写真等も参照して,お互いの言い分と裏付け証拠を照らし合わせて,情報を共有化させ,実際の事故状況がどうだったのかを推測します。
    その上で,これまでの主張や証拠からすると,「事故状況としてはこうではないか」という感じになることもあります。そうなれば事故状況についてはそれを前提として話を評価の問題に流していきます。とはいえ,当事者で情報を出し合っても事故状況について合意ができないことも多いでしょう。その場合には,調停委員会からの認定を示すことにします。断定はできませんが,出された主張や証拠からすると本件事故はこういう状況だったのではないかと,一定の事故状況の認定を示します。ただ事実認定は,調停案の提示の中で,事実認定だけ提示されるのではなく評価の問題とあわせて示されることも多いでしょう。
 
4 事故状況に食い違いがない場合,また情報提供と話し合いによって食い違いが解消させた場合には,評価の問題に移ります。
    別冊判タや赤本の過失割合の図をベースに,「本件事故は図の番号どれどれに当てはまる」と主張できるようであれば,それを話してもらいます。そこで当事者双方で参考とする図が共通していれば,それを前提に修正要素の有無が食い違いのポイントになってくるということになります。
    食い違っているところ,争いのあるところを絞り込んでいき,その点について,主張を出し合い,裏付け証拠(情報)を双方に出してもらうことになります。
    これまでの作業は,当事者間の話合いの合意形成に向けた作業ですが,当事者間の解決案では合意形成できない場合には,調停案を出すための作業,すなわち調停委員会における事実認定と法的評価をふまえた判断の前提作業にもなっています。
 
5 過失割合は,重要な争点になることが多いのですが,あくまで一争点に過ぎません。全体の損害賠償額を決めるための一要素です。そこで,過失割合という項目が争いになっている場合でも,全体の中で解決を図る必要があります。逆に言うと過失割合だけの調整が困難な場合でも,全体の金額によって調整可能な場合があります。過失割合に対するこだわりの程度も,当事者双方で違う場合もあるからです。
    例えば,申立人が過失割合を重視し,相手方が他の項目の金額や合計金額を重視しているような場合には,申立人主張の過失割合を前提にしつつ,他の項目の算定額や合計の金額面で,相手方の意向をくむような調整も可能です。

以上

春の犬と花。

平成26年5月10日(土)
 
こんにちは。
神坪浩喜です。
GWも終わり、新緑の翠も太陽の日差しもますます眩しくなって来ましたね。
最近撮ったマリと花の写真です。よろしければ、お付き合いください。

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スイセンと一緒に。

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ビオラやジューンベリー

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泉ボタニカルガーデンの
シャクナゲと一緒に。

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街路樹の白いハナミズキと。

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チューリップとマリです。

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青森の海とマリです。
春の潮風が心地よい?

犬ばかりの写真にお付き合いいただき、ありがとうございました!
それでは、また。

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民事調停の役割、立ち位置

神坪 浩喜

1 民事調停の役割-対話促進
「調停は、裁判所で行われる話し合いです。」
そのように私は調停が初めての当事者の方に説明します。それは、調停が裁判と違って、誰かに何かを決められるというものではなく、自分が主体となって自律的に紛争を解決するものであることをお伝えしたいからです。
 
調停は、裁判所という場所で行われるとはいえ、基本は「話し合い」です。調停案を出して、調停委員会が調停案を出して解決を促すこともありますが、当事者が話し合いをして合意ができるのであればそれが一番です。
調停は、当事者が相手との話し合いを通じて解決を選び取る自律的紛争解決手続です。それは、人は自由な存在であり、自分のことは自分で決めるという個人の尊重の理念から導かれるものです。紛争解決においても、当事者が自律的に決めるというのが基本です。民事調停においては、調停人が関与するとはいえ、あくまで当事者が主役であり、調停人は当事者が自律的に紛争を解決するサポート役です。調停委員が、解決案をおしつけたり、互譲を迫ったりすることは避けなければなりません。
ですから、当事者間の話し合い、対話を促進させることが調停人の役割と言えます。当事者同士の話し合いでは解決できないということは実際のところよくあることです。相手の主張に納得できないということもあれば、感情的にこじれて相手と直接話したくない、顔も見たくないという場合もあります。相手への不信感から、相手が言っていることは、全て正しくないと思いこむこともあるでしょう。コミュニケーションが不全となった状態です。
 
そんな時に調停人は、コミュニケーションを健全化させるのです。相手に対して、何を希望しているのか、それはどのような理由なのか、そして根底にある思い、真意は何なのかを聞き取って相手に伝えます。コミュニケーション、情報伝達が不全となった当事者の間に入り、情報の伝導をよくするのです。
そのためには、調停人が、当事者から真意と主張、理由といった情報をよく把握する必要がありますが、前提として、調停人が当事者から信頼を得る必要があります。当事者の心を開いてもらうと情報収集がスムーズに進みます。当事者から信頼を得ることはとても重要です。
私が当事者から信頼を得るためのポイントだと思うのは、「評価をせずに聴く」ということです。その当事者の話していることが、法的には話が通らないように思えても、一方的な思いこみだと感じたとしても、その方がそう考えていることは、その人にとっては真実なのですから、「それは違う」と否定評価することなく、まずはそのまま受け取るのです。
この「評価しない」ということは、実際にはなかなか難しくて、私もつい評価してしまいそうになりますが、調停人から「それは違う」と言われたときには、間違いなく当事者は、この調停人は「話を聞いてもらえない」とその心の扉を閉ざすことでしょう。評価しないというのは、マイナスの評価だけではなく「そのとおりだ」「それは酷い相手だ」とプラスの評価も含めてです。プラスの評価をしてしまうと、その当事者は、調停人が自分の味方になってくれたとその場では喜ぶでしょうが、調停人に信頼を寄せるというより心理的に依存し、自分の考えに固執し、相手の話に耳を傾けることが難しくなりがちで、対話が困難になります。
 
信頼関係を構築するには、積極的傾聴が効果的です。それは、単によく話を聞くだけではなく、心情にも配慮して当事者が話した内容を言い換えることができると、話し手は「わかってくれた」と信頼を寄せてくれるようです。その上で法的なフレームを念頭においた事実確認をしていきます。
対話促進のためには、お互いが伝えたいことを伝えて、風通しをよくすることが必要です。いわば情報の共有化を進める作業です。お互いが自分の考えと理由、その裏付け書類を出して、同じ情報を見るようにします。調停人も必要に応じて法的情報(法令解釈や判例の考え方等)を提供します。
相手の言い分をよく聞く、新しい情報を見ると、話し合いをする前に抱いていた印象が変化することもあるものです。情報を共有化した後で、「さて、この問題を解決するために、私たちはどうすればいいのでしょうか?」と解決案の検討に入ります。
原則として、解決案は当事者に考えてもらいます。調停人からいきなり調停案を出すことはできる限り控えます。情報の共有化をして、風通しをよくした上で、解決案を考えてもらいます。その時に、当初の希望のままで固執する方もおられますが、多くの方は、相手には相手の考えもあることも理解し、相手から出された証拠や調停人からの法的情報といった新しい情報を得たことから、当初の希望とは異なる提案をしてくれます。
 
解決案の検討にあたっては、一方が得をすれば他方が損をするという分配型の解決ではなく、当事者双方にとってメリットのある(解決統合型、ウィンウィン型)ができないかを柔軟に考えます。なかなか難しいところですが、ここが柔軟に解決可能な調停の醍醐味でもあります。
当事者双方そして調停人の三者で、当事者双方にメリットのあるよい解決案がないかを考える、知恵を出し合うというような空気になれば、理想的です。その時は、当事者双方がこれまでの「敵対者」から共に解決をしようとする「協力者」になり、紛争の自律的解決の気運は一気に高まります。
以上のように調停人は、当事者双方が紛争解決への「協力者」となれるようサポートするのが第一の役割と考えます。
 
2 調停案について
もちろん、当事者双方の対話だけでは、解決に至らないことも多いでしょう。裁判所で行われる調停として、法的判断に裏付けられた公平な立場の調停人の意見も聞きたいという当事者の期待もあります。
調停人は「評価をしないで、当事者間の対話を促進させる」ということを基本的なスタンスとすべきと考えますが、他方で当事者間の対話では合意形成が難しいときには、的確な事実認定を通じた法的な裏付けのある調停案の提示を積極的にすべきとも思います。当事者の話し合いで解決、合意形成に至らなかった場合は、そのまま不成立にしてしまうことなく、調停案による解決ができないかを試してみるのです。
当事者の対話を促進させることが、調停人の第一の役割ですが、当事者による対話でまとまらないときに、調停案が出せるように、評価に必要な情報は意識して集めておく必要があります。そして、タイミングがくれば当事者の個別事情をくみ取った合理的かつ公正で法的判断の裏付けのある調停案を提案します。
調停案は、的確な事実認定と法的な裏付けのある当該事案にそった合理的な解決案として提案はしますが、押しつけにならないように気をつけなければなりません。
「調停案を提示し当事者を説得する」と「説得」という表現が一般的に使われますが、調停案が正しいのだと押しつけるのではなく、これまでの話し合いをふまえて、中立公平な第三者で法的評価もできる調停委員会が、この紛争解決に向けてお勧めの案として提案します。
調停案はあくまで提案であり、当事者が主体的に選び取るものです。ですから調停案のとおりに決まる必要もなく、そうでなくても、調停案をたたき台にして、当事者双方で別の解決案で合意形成ができるとしたらそれはそれで望ましいことと思います。
 
3 民事調停の立ち位置について
紛争解決手段には、話し合いで解決するものと、誰かに決めてもらうもの(決められるもの)とがあります。対話と裁断、第三者の関与の有無を軸にして、「交渉、ADR、裁判」と表にまとめてみました。
民事調停が、様々な紛争解決手段がある中で、いったいどのように位置づけられるのか、その特徴と強みを把握して調停を実践していくことが、有用だと考えています。
調停は、対話と裁断の軸において、「対話」に位置します。「調停は話し合い」が基本です。他方で、「裁判所で、裁判官、調停委員が関与するもの」ですから、裁断、法的判断の意識も底流には流れています。そこから、当事者間の対話でまとまらないときに、調停案、さらに17条決定といった形で、裁断の要素が表に現れてきます。
当事者同士の話し合い、交渉との対比では、中立的な第三者が関与する点が異なります。当事者同士の話し合いでまとまらないときに、第三者を入れた話し合いをすればまとまることもあります。それは、二当事者の話し合いではまとまらない障害を、中立的な第三者が入ることで、取り除くことができるからです。その障害とは、一般的に言えば、情報伝達不足や感情的なもの、法的情報の不足等ですが、個別具体的事案において、何が対話への障壁になっているのか見極めて取り除くことが調停活動のポイントになるでしょう。
裁判との対比では、調停は「話し合い」だということです。裁判官に決めてもらうという他律的な裁断ではなく、自らが合意形成をめざす自律的主体的な紛争解決手段です。そこから、先に述べた対話促進を基本にした調停の進め方が導かれます。要件事実だけにとらわれない、法律で割り切らない、当事者の心情、事案の背景事情も含めた柔軟で当事者が納得できる解決が可能です。
中立的な第三者が関与する話し合い=ADRの中には、民事調停だけではなく、弁護士会で行われるような民間ADRもあります。民間ADRに対して、民事調停は司法型ADRと位置づけられます。民間と異なり、裁判所という公的機関で、中立的な第三者には裁判官、調停委員が協同して関与するという特徴があります。
調停調書には、判決と同じ強制力が付与されます。その特性から、法的判断に裏付けられた公平かつ合理的な解決が期待されます。また一般調停委員は、豊富な社会経験を有していますので、その経験に裏打ちされた当事者の心情に配慮した事情聴取や的確な事実認定、解決案の策定が期待できます。
民事調停は、中立的な第三者が関与する話し合いであるという「自律的な対話」をベースとしつつ、いざというときは的確な事実認定と法的判断をふまえた解決案を提示することもあるという「裁断型」の側面も活かして紛争解決を図る手続です。自律対話型と裁断型の両者をあわせたハイブリッド型と言えるかも知れません(但し自律対話型があくまで基本です)。また一般調停委員の豊富な社会経験と健全な良識をもとに、当事者の心情に配慮し、柔軟な解決が可能な紛争解決手段です。
当事者の自律性を重視しつつ、法的な評価も可能な民事調停の紛争解決手段としての役割は、価値観が多様化している状況において、これからますます大きくなるだろうと思っています。

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平成26年3月23日(日)
 
こんにちは。
神坪浩喜です。
 
はやいもので3月も下旬ですね。まだ庭には雪も残っていますが、スノードロップやクロッカスも顔を出しました。
 
さて、引き続き「嫌われる勇気」(岸見一郎、古賀史健著タイヤモンド社)についてのお話です。
対人関係の悩みをなくすためには、まず「他者分離」そして自己受容にもとづく「共同体感覚」、他者を仲間とみて、他者への貢献感を持てるようにすることが大切だということでした。
 
人からどう見られるか、人がどう評価するか、ではなく、自分が、だれのどのような役に立ちたいのか、自分起点で考える自分が選択できる「受け止め方」や「行動」について考えるということでした。
 
今回は「劣等感」についてのお話です。
 
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「劣等感」は、私たちを苦しめます。
しかし、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのです。
主観的な解釈は、自分の手で選択可能だということです。つまり、劣等感も変えることができるということです。
 
運命論、決定論、トラウマ論・・・私たちは過去に支配されている、何かによって決められているという考え方がありますが、アドラーは、それをとりません。「目的論」をとります。
目的論とは、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す、経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するという考え方です。過去に支配されない、感情に支配されない、人は変わることができる、という考え方です。
 
大切なのは何が与えらえているかではなく、与えられたものをどう使うかです。
確かに、与えらえるものは、決まっているかも知れません。
しかし、与えらえたものをどう使うかは、自分に委ねられているのです。
 
自分が不幸なのは、起きた出来事だけではなく、自らの手で「不幸」であることを選んでいるからかも知れません。
悲観的にものごとを考える、短所ばかりに目が行く、他者を競争相手、敵と考える・・・。
そのような考え方は、劣等感に悩み、他者とよい関係を築くことも難しくなります。
 
そんな「不幸」であることを選ぶ考え方、価値観は変えられないのでしょうか?
 
確かに、染みついた考え方、価値観を変えることはそう簡単なことではありません。
 
しかし、アドラーは、その考え方や価値観を選び直すことが可能だといいます。
変えられないのではありません。変えることはできると断言します。
 
そして、結構キツイこんなことを言っています。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
変わらないのは、あなたが変わらないことを選んでいるからだ。なぜならそれが「楽」だから。
もし自分の短所ばかりに目についてしまうとしたら、それはあなたが「自分を好きにならないでおこう」と決心しているからだ。
 
変わらない自分への言い訳をしてはいないだろうか。
「もしも○○だったら」と可能性のなかに生きてしまっていないか。
例えば、時間があったら、お金があったら等と言い訳していないか。
 
やらないのは「やればできる」という可能性を残しておきたいのだろう。
なぜなら、やってみてダメだったらダメなことが分かってしまう。自分の現実を突き付けられてしまう。
 
評価されること、否定されることが怖い。やらない理由は、誰もが簡単に見つけられるものだ。
 
「見かけの因果律」に支配されてはいないだろうか。
「見かけの因果律」とは、本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのようの自らを説明し、納得させてしまうことだ。
例えば「学歴低いから成功できない」とか「AであるからBできない」と。
自らの劣等感をある主の言い訳にしはじめた状態に陥っていないか。不幸自慢をしてしまっていないか。
 
劣等感は、他者との比較において自らの価値判断に関わる言葉だが、対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができない。
競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感だ。いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになってしまう。
 
「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」
それは、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのだ。
「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになる。
 
自分の欠如を努力と成長を通じて補償しようとすることはいい。
しかし、欠如を、偽りの優越感で補償しようとすると不幸を選ぶことになる。
 
誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいい。
他者との比較ではなく、理想の自分との比較だ。
 
他者を仲間とみて、他者に貢献する生き方を選ぶことができれば、人生は大きく変わる。
 
===========================
 
「変わらない自分(=チャレンジしない自分)への言い訳をしていないか」とか、私も身に覚えがあり、グサッときました。
 
この本、いろいろとイタタタタ・・・とキツイ言葉が並びます。
自分に自信がなく、自分嫌いの「青年」の気持ちがよく分かります。
他者のことをうらやましく思ったり、自分をダメだなあと思ってしまうのは、どうしようもないのでは?という気もします。
 
しかし、この本では、運命や環境に決定されずに、自分で選べる、コントロールできる、変えることができるといった主体的な生き方ができること、
幸せになることができること、だから前に歩いていこうと励ましてくれます。
勇気づけてくれます。
 
運命や環境は、時にどうしようもなく、どうしてこんな辛い目にあわなければならないんだろうと、運命を恨みたくこともあるでしょう。
 
それでも、人は、主体的に生きることができる。選ぶことができる。
幸せになることができる。
 
自分の人生のハンドルを自分で握るのか、それとも誰かにまかせてしまうのか?
 
この本を読んで、そんなことが問われているような気がしました。
 
それでは、また。
あなたが幸せでありますように!

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平成26年2月24日(月)
 
こんにちは。
神坪浩喜です。
 
前回に引き続き「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著、ダイヤモンド社)のご紹介です。
※嫌われる勇気
この本はアドラー心理学をもとに「自由に幸せに生きるためにはどうすればいいのか」について、分かりやすく書かれています。
 
前回は、幸せな対人関係のスタートが「課題の分離」であるということ、まず自分の課題と他者の課題とを切り分けた上で、他者の課題は他者にまかせて、自分が抱え込まないこと、他者に嫌われることをおそれないこと、自分の課題にのみエネルギーをそそぎ、自分が何をしたいのかを大切にして、前に進んでいく・・・。
ということをお話しました。
 
今回は対人関係のゴールである「共同体感覚」についてです。
 
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「共同体感覚」とは、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることです。それは、共同体に対して自らが積極的に関わろうとすることによって得られる感覚です。
 
「共同体感覚」を得るには、自己への執着を手放し、他者への関心に切り替える必要があります。
すなわち、「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」と考え方を切り替えるのです。
考え方を切り替えるのに必要なのは「自己受容」「他者信頼」そして「他者貢献」です。
 
「自己受容」とは、ありのままの「このわたし」を受け入れることです。そして変えられるものについては、変えていく「勇気」を持つこと。
 
自己受容するからこそ、他者を無条件で信頼「他者信頼」することができ、仲間と思える「他者貢献」ができます。
他者貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、ありのままの自分を受け入れること「自己受容」ができるのです。
 
他者には、特に子どもには、自分は価値があると思えるために、「ありがとう」「うれしい」「助かったよ」と声をかけるようにしましょう。
感謝の言葉は、自らが他者に貢献できたことを感じさせます。
 
大切なのは、他者を「評価」しないことです。評価ではなく、勇気づけのアプローチをするのです。
 
人は、自分に価値があると思えたならば前に進む勇気を持てます。
人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できるのです。
自分の価値は、他者からよいと評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えることなのです。
 
他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわないません。
「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。
 
幸福とは、貢献感です。
 
ただ、貢献感を、他者の承認から得てはなりません。他者の承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がないのです。
われわれは自由を選びながら、なおかつ幸福をめざす存在なのです。
 
自らの上空に「他者貢献」という星をかかげていれば、つねに幸福とともにあり、仲間とともにあります。
嫌う人がいようとも、自由に幸せに生きているのです。
 
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なるほど。
幸福とは、共同体への貢献感、誰かの役に立っているという主観的な感覚ですか!
 
確かに、自分は誰かの役に立っている、意味がある存在だという感覚を感じられたとき、心の芯から充実感、幸せ感を感じます。
弁護士の仕事をして、事件が解決して、自分が依頼者の役に立てたという感覚を持てたときは嬉しいものです。
 
他者が何かをしてくれるかではなくて、自分が他者に対して、社会に対して、何ができるのかを考えるのですね。
 
逆説的ですが、自分を幸せにしたければ、自分のことを考えるのではなく、他者に自分が何ができるのかを考えて行動するのが一番だということです。
 
自分が他者からどう見られているかに、心を捉われるのではなく、自分を起点にして、「わたしはこの人に何を与えられるのか」と他者のために行動する。
 
自分の考え方と行動によって、これから自分を幸せにすることができるのですね。
たとえ過去や現状がどんなに辛いものであろうとも・・・。
  
アドラー心理学は、勇気の心理学とも呼ばれています。
確かに、勇気をもらった気がしました。
 
それでは、また。

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平成26年2月16日(日)
 
こんにちは。
神坪浩喜です。
 
仙台は先週末も大雪でしたが今週末もまた大雪となりました。
雪かきで、筋肉痛です。
 
さて先週末、書店内を歩いていて「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著、ダイヤモンド社)という本がふと目にとまり、読んでみました。
 
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」
とフロイト、ユングと並び心理学の三大巨頭と称されるアルフレッド・アドラーは言います。
たしかに対人関係がうまくいっていると幸せですし、うまくいかないと辛いですよね。
家族との関係、職場の人達との関係、友人との関係・・・。
弁護士の仕事は、対人関係の悩みを扱う仕事であると言えます。
 
この本はアドラー心理学をもとに「自由に幸せに生きるためにはどうすればいいのか」について、哲人と青年の対話を通じて分かりやすくかかれています。
「へえ~なるほど~」と共感することも多く、いろいろと参考になりましたのでご紹介しますね。
 
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対人関係のスタートが「課題の分離」であり、ゴールは「共同体感覚」です。
 
「課題の分離」とは
「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離することです。
自分の課題か他者の課題かは「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」で分けられます。
 
他者の課題に踏み込んではいけません。
他者から認められたいという承認欲求は否定してください。それは他者の課題で自分の課題ではないからです。
他者の期待、評価を気にしすぎてはいけません。他者の人生を生きてしまいます。
 
自分の課題に注力してください。自分の課題は、自分が選択・行動して変えることができます。
自分の課題について「これから何ができるのか?」を考えるのです。
 
人生の意味は、自分が自分自身に与えるもの、人からどう見られるか、人がどう評価するか、ではなく、自分がなにをしたいのか、何を与えたいのか、だれのどのような役に立ちたいのか、自分起点で考えるのです。そして前に一歩踏み出していくのです。
 
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。
われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」し、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。

相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。他者に見返りを求めてもいけないし、そこに縛られてもいけません。
 
自分らしく自分の人生を生きる、それは他者の人生を生きないということ、自由であることです。
「自由」とは、他者から嫌われることを怖れないことです。
 
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くこと、すなわち自由に生きることはできません。
 
対人関係のカードは常に「わたし」が握るようにしてください。課題の分離が理解できると、すべてのカードは自分が握っていることに気が付くことでしょう。他者の承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られたままになります。
人生のカードを他者に委ねるか、それとも自分が握るのか、その選択はあなたに委ねられています。
 
「課題の分離」をマスターしたとき、幸せな対人関係のスタートに立つことができます。
 
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いかがでしたでしょうか。
 
まず自分の課題と他者の課題とを切り分ける。
切り分けた上で、他者の課題は他者にまかせて、自分が抱え込まない。
他者に嫌われることをおそれない。
自分の課題にのみエネルギーをそそぐ。
自分が何をしたいのかを大切にして、前に進んでいく。
・・・ということですね。
 
そのとおりだなと私も思います。
 
どうしても、誰かに期待しすぎてしまうと、期待以下であればがっかりし、ときに怒ってしまいますし、認めてもらいたいという欲求が強いと、認めてくれないと思うとやはりがっかりします。
 
他者をコントロールしてやろうという意識が出てくると、それは相手も感じますから、操作されたくないと他者は抵抗をすることでしょう。
そしてギスギスした関係になってしまいます。
 
他者から嫌われることを怖れない、というのは勇気がいることだと思います。できれば誰からも嫌われたくないと思うのが人情でしょう。
 
しかし、自分のことを好きか嫌いかは、やはり他者の課題で、自分ではどうしようもない問題なのですね。
 
では、課題を切り分けた上で、自分は他者に対してどのようなスタンス、アプローチをとればよいのでしょうか。
それが、対人関係のゴールである「共同体感覚」のお話です。
 
つづきはまた次回に。

会いたい人に

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平成26年2月2日(日)
 
こんにちは。
神坪浩喜です。
 
はやいもので2月になりましたね。一昨日は、ADR学会シンポの打ち合わせがあり東京でした。夕方の打ち合わせの前に、築地の病院に入院しているTさんをたずねました。そのときのお話です。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昨年の暮れに一枚の葉書が事務所に届いた。大学の一つ上のT先輩からだった。喪中葉書かと思って、裏返すと、ぎっしりと揺れる文字が書かれてあった。
「自分は今重い病気で入院していて、もう長くないかも知れない。会えるうちに病院に会いに来てほしい」と。
 
私は、言葉を失い、茫然と立ち尽くした。
 
Tさんには、東北大学無料法律相談所、法相でいろいろとお世話になり、よく話をしていた。勉強熱心で頭の回転の速い、饒舌な先輩だった。
Tさんと卒業間近の3月に、Tさんの卒業旅行にお付き合いして、一泊二日で青森の弘前に旅行に行った。
岩木山を眺め、日本海側沿いをドライブした。日本海に沈む夕日がとても綺麗だった。
 
Tさんとは、大学を卒業して以来、一度も会ったことはなく、最後に会ってから、もう二十数年にもなる。いつしか年賀状だけのつながりになっていた。
その先輩Tさんが、今重い病気で、私に会えなくなる前に会いたいと言っているのだった。
「すぐに会いにいかなければ・・・」
そう思う反面、しかし、会いに行くことが怖くて動けなかった。
 
いったい自分はどう対応すればいいのだろう。
会いに行って、自分はどんな顔をすればいいのだろう・・・。
どんな声をかければいいのだろう・・・。
 
年が明け、私の東京出張の機会に合わせて、思い切ってTさんに会いに行くことにした。
仙台では吹雪いていた空が、東京では青空が広がっていた。コートが重く感じた。
 
高層ビルの病棟に入り、エレベーターで昇っていく時、胸の鼓動が高まった。
受付の看護師さんに、声をかけて、Tさんの病室に案内してもらった。
 
「やあ、神坪くん、来てくれてありがとう!」
Tさんは、いきなり嬉しそうに声をかけてくれた。姿を見るとやつれて痛々しかったが、声は学生のころと変わらぬ元気な声だった。
「どうも、お久しぶりです」と私はぎこちなく言った。
 
Tさんは、本当に嬉しそうに、喋りかけてきた。
私が「なんと声をかければいいのだろう」と悩んだのが意味がないくらいに、饒舌だった。
 
大学を卒業してからのこと、法相のこと、Tさんは楽しそうにしゃべり続けた。
頭の回転が速く、早口だった。声だけを聴けば何も20年前のTさんと何も変わっていない。
私からも近況や今の法相のこと等を話した。Tさんは嬉しそうに聞いてくれた。
 
しばらくすると、私はTさんの姿を見ることができずに、声だけを聴いていた。17階の病室の窓からは、青く澄んだ空と東京の街並みが広がっていた。
 
「会いたい」と伝えることにどれだけ勇気がいることだろう。
自分を直視して、自分の病気の姿を見せることや、「会いたい」と伝えて、会いに来てくれなかったときのことを思うと、自分がTさんの立場だったら、はたして同じことができるだろうか。
 
いや、それでもやはり会いたい人には会いたいと伝えるのだろう。
 
「元気になって、仙台に遊びに来てください」
「ああ、行くよ」
 
私は、最後にそうTさんと言葉を交わして、病室を後にした。
私の声が少し震えていたのをTさんに気づかれてしまっただろうか。
 
・・・・・
 
私の「会いたい人」って誰だろう。
私のことを「会いたい」と思ってくれる人は誰だろう。
 
病院を出て、振り返って、Tさんの病室のあたりをしばらく眺めながら、そんなことを思った。

あけましておめでとうございます-2014

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平成26年1月6日(月)
 
あけましておめでとうございます。
弁護士の神坪浩喜です。
 
あやめ法律事務所では、昨年の暮れに、新しく林屋陽一郎弁護士を迎えました。
 
林屋弁護士は、司法研修所を出たばかりの新人弁護士ではありますが、意欲、能力とも高く、誠実な人柄の方です。
これから経験を積んでよい弁護士さんになることでしょう。私自身も初心を忘れずにがんばろうと思っています。
林屋弁護士ともどもどうぞよろしくお願いいたします。
 
さて毎年、あやめ法律事務所の年賀状では、スタッフのひと言をのせています。 
==================================
 
神坪 物心両面の解決をめざしてがんばりたいと思います。
(問題の解決だけではなく、心のケアも含めた本当の解決をめざしたいと思います)
 
塩谷 初心を忘れず頑張ります。
 
林屋 日々向上していけるようにしたいです。
 
江坂 早起きをしてテレビ体操を毎日続ける!
 
安沢 整理整頓がんばります。
 
逢坂 何事にも誠実な人間でありたいと思います。
 
===============================
 
スタッフ一同、あやめ事務所を選んで訪れた方のお役に立てるようがんばりたいと思います。
 
 
今年もどうぞよろしくお願いいたします!

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平成25年12月30日(月)
 
こんにちは。
弁護士の神坪浩喜です。
 
2013年もあと残りわずかですね。
みなさまにとって2013年という年はどのような年だったでしょうか?
よい年だった、大変な年だった・・・。
一年いろいろな出来事があったかと思います。
 
人生、うまくいっているときもあれば、逆に何をやってもうまくいかないというときもあります。
 
調子がいいとき、うまくいっているとき、ずっとこのまま調子がいいような気になってきます。
調子がいいときは、後から考えればそんなはずはないのに、ずっとこんな調子が続くものと思って、どこか浮かれてしまいました。
 
調子のいいときに、謙虚であり続けることは実に難しいものです。
ついつい自分はすごいんだと傲慢になったり、すべて自分の実力だなんて過信してしまったりします。
 
このままでいいんだと努力を怠ってしまいがちです。
今成果が出ているのは、支えてくれた人達のおかげでもあるのに、その方々への感謝の気持ちも忘れてしまったりします。
 
そうすると人は離れていき、運気も落ち、成果もあがらなくなっていくことでしょう。
気がついたときには、「あれ、こんなはずじゃなかった!」と茫然と立ちすくんでいたりします。
 
逆に、調子が悪いとき、うまくいかないとき、そんな時に自信を持って歩き続けることは難しいものです。
自分はダメな人間だとあきらめたり、なんて運が悪いんだと運のせいにしてその場にとどまってしまう。
 
支えてくれている人達がいることに気づかずに、自分一人だけで不幸な気になる。
他の人を羨ましく思ったり、嫉妬をしたり、卑屈にさえなっていきます。
 
そうするとやはり人は離れて、運気はあがらず、成果もあがらないでしょう。
 
では、どうすればいいのでしょうか。
 
調子のいいときには、謙虚であること、感謝することができること、努力を怠らないこと
調子がいいこと、うまくいっていることは決して当たり前ではなく「有り難い」ことなのです。
もちろん自分ががんばった成果でもあるでしょうが、他の方々の支えがあったからでもあります。
 
調子が悪いとき、何をやってもうまくいかないとき
それでも自分を信じること、決して自分をあきらめないこと、見限らないこと
それでも歩くことをやめないこと、歩き続けること、次につながる種を植え続けること
 
辛くてもがんばり続けるあなたを誰かがきっと見ています。
辛くて大変なときに支えてくれる方々は本当にありがたい存在です。
そうした方々への感謝の気持ちを忘れないでいるといいですね。
 
調子のいいときも、うまくいかないときも謙虚であり、自分を信じて歩き続けること
どんなときも周囲に感謝の気持ちを持つことができること
 
なかなか難しいことですが、私もまだまだですが、そんな風に生きることができたら素敵だなと思います。
 
今年も大変お世話になり、ありがとうございました。
来年という年が、みなさまにとって素敵な一年になりますように!

セクハラ問題の会社の責任-その2

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平成25年12月15日(日)
 
こんにちは。
弁護士の神坪浩喜です。
セクハラ問題の続きです。
※セクハラ問題の会社の責任-その1 
○設例
Q:会社のA子さんが、上司のB課長から、体を触られる等セクハラを受けているので、何とかしてほしいとの相談がありました。会社としては、どのように対応すればいいのでしょうか?
 
A:会社は、中立的な立場で、当事者双方から事情を聴取する等して事実関係を迅速かつ正確に確認し、事実確認ができた場合には、行為者に、当該セクハラ行為に応じた処分を行う必要があります。その際には、相談者・行為者のプライバシーに配慮し、被害者が相談したことのみで不利益な取り扱いにしないよう注意する必要があります。
 
===================================
 
セクハラの相談があれば、会社は、適正な手続きを通じた事実認定と必要な処分、環境整備をすみやかに行わなければなりません。
今回は、実際の調査、事実認定や処分のポイントについてお話しますね。
 
まずA子さんから聴き取りを行います。
 
聴き取りの際には、会社は中立公正な立場であること、相談者のプライバシーは保護されること、被害者が相談したことのみで不利益な取り扱いはなされないことを伝えて、安心して話をしてもらいます。被害者は、精神的に傷ついていることも多く、こうして会社に相談すること自体、勇気がいることですので、安心して話ができるように配慮することが必要です。
 
聞き取りのポイントは、事実確認です。
 
①行為の態様-どんなことをしたのか?
②行為者の職務上の地位-役職は何か?
③行為者、被害者の年齢
④婚姻歴の有無
⑤両者のそれまでの関係-どのような関係性があったのか?
⑥当該言動が行われた場所-会社内、酒席の席、移動中の車内等
⑦その言動の反復・継続性-1回きりか、数回か、執拗なものか
⑧被害者の対応-拒否反応をしていたか(拒否できなかった事情がある場合もあるので、注意が必要)
がポイントとなる事実です。
 
この際、気をつけなければならないことは、聞き方としても中立公正に聞くということです。
A子さんが話している内容を、「評価」しません。
A子さんが、話していることをそのまま真実だと鵜呑みにしたり、逆に「それは違うでしょう」と否定したりせず、A子さんが話していることを、まずはそのまま受け取ります。それは酷いねと安易に同情したり、それくらいは我慢しなさい等と突き放したりはしてはいけません。自分の価値判断から安易に評価をしてしまうと、二次的な被害を与えてしまう可能性もあります。
 
A子さんが指摘した事実について、何か裏付けの証拠等があるかないかを確認し、あればそれを確認します。
 
そして、A子さんの希望や今後の調査の方法について確認します。
 
A子さんの話だけから、B課長に何らかの処分をすることはできません。
A子さんの話が、全部が真実だとは限りませんし、B課長にも何らかの言い分がある可能性もあるからです。A子さんから聞いた話をもとに、B課長に、それが事実なのか否か等について、言い分をきちんと聞く必要があります。不利益な処分を行う前提として、適正な手続き、不利益な処分を受けるものに、十分な弁明の機会が与えられることが必要です。
 
裁判例によれば、いつ、どこで、誰から、どのような被害を受けたかについて、具体的に行為者に示さずに行為者に弁明させたとしても、会社が弁明の機会を与えたとは判断されない可能性があります。ですから、セクハラ行為について、具体的に特定した上で、行為者に弁明の機会を与える必要があるのです。
 
A子さん、B課長双方の話から、食い違いがない事実(例えば、A子さんが指摘した事実についてB課長が認めた事実)は、実際にあった事実として認定できます。双方の話で食い違った事実(A子さんが、指摘した事実について、B課長がそのような事実はなかったと否定したような場合)は、裏付け証拠によって認定していきます。
裏付け証拠がない場合には、双方の供述について、自然で合理的か、具体的か、首尾一貫しているかを比べて、どちらが信用できるのかを確認します。
 
こうして、認定された事実をもとに、セクハラ行為があったかについて、判断します。
 
調査によってセクハラの事実があると認定した場合、それに応じた処分を検討します。セクハラ行為といっても、軽微なものから悪質なものまでいろいろでしょう。軽微なセクハラでいきなりの懲戒解雇はできません。突然、懲戒解雇をすると権利濫用として解雇が無効となる可能性が高いでしょう。軽微なセクハラに対しては、まずは指導や注意を行うのがよいでしょう。
 
裁判例は、職場において、男性の上司が部下の女性に対し、その地位を利用して、女性の意に反する性的言動に出た場合、これがすべて違法と評価されるものではなく、
行為の態様、行為者の職務上の地位、行為者、被害者の年齢、婚姻歴の有無、両者のそれまでの関係、当該言動が行われた場所、その言動の反復・継続性、被害者の対応
等を総合的にみて、それが社会的見地から不相当とされる程度のものである場合には、性的自由ないし性的自己決定権等の人格権を侵害するものとして違法になるとしています。
 
会社としては、社員からセクハラの相談があった場合、迅速に双方の事情聴取を行い、セクハラ行為が認定されれば、それに応じた処分や再発防止策を行う必要があります。
 
会社にとっては、実に悩ましい問題です。
 
一番よいのはセクハラ問題が起きないことです。そのためには、セクハラ問題が起きないように、従業員にセクハラ行為はあってはならないことや、セクハラ行為者は処分されることを周知させる等、十分な予防措置を講じておくことが大切ですね。
 
あやめ法律事務所では、セクハラについてのご相談も受け付けておりますので、お気軽にお問合せください(電話022-779-5431)。
 
それでは、また。

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平成25年12月8日(日)
 
こんにちは。
弁護士の神坪浩喜です。
 
今日は、セクハラについてのお話です。
セクハラは、職場環境を害しますし、被害者に心の傷を負わせてしまいます。他方で、軽微なセクハラについて、いきなり解雇といった重い処分は、
行為者にとって酷にすぎ、不当解雇となります。会社にとっては悩ましい問題ですね。
 
会社は、セクハラの予防や解決のために、どのような責任があるのでしょうか?
 
Q:私は会社経営者ですが、従業員のA子さんから、上司のB主任から、体を触られる等セクハラを受けているので何とかしてほしいとの相談を受けました。会社としては、どのように対応すればいいのでしょうか?
 
A:会社は、中立的な立場で、当事者双方から事情を聴取する等して事実関係を迅速かつ正確に確認し、事実確認ができた場合には、行為者に、当該セクハラ行為に応じた処分を行う必要があります。
その際には、相談者・行為者のプライバシーに配慮し、被害者が相談したことのみで不利益な取り扱いにしないよう注意しなければなりません。なおセクハラ予防の措置が整備されていなければ、厚労省指針に従って、直ちに整備した方がよいでしょう。
 
==================================
 
セクハラの問題が発生した場合、会社は、被害者に対しては、職場環境配慮義務違反、セクハラ行為者への処分が厳しければ、不当処分といった難しい問題に直面することになります。つまり、被害者を守らなければ被害者に対して責任が生じ、事実誤認で行為者を処分したり、処分が厳しすぎれば行為者に対して責任が生じます。
 
会社は社員に対し、労働契約上の付随義務として、信義則上職場環境配慮義務、すなわち社員にとって働きやすい職場環境を保つように配慮すべき義務を負っています(判例)。社員個人の問題とすまされず、会社はセクハラを防止するための措置を十分とる必要があるのです。
 
この義務を果たす前提として、厚労省セクハラ指針をおさえておく必要があります。
 
雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律、いわゆる「男女雇用機会均等法」11条1項は、
「事業主は、職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け、または当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない。」 
と定め、11条2項で、事業主が講ずべき措置に関して、厚労大臣が指針を定めるとしています。
 
この条項を受けて「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置についての指針」=厚労省セクハラ指針が定められたのです。
厚労省セクハラ指針にそって対処をしていれば、職場環境配慮義務を果たしていると仮に裁判になっても判断される可能性が高いのですが、逆に、これを実施していないと職場環境配慮義務を果たしていない(=会社に責任あり)と認定されやすくなります。
 
指針は9項目が定められていますが、ポイントは以下の4つです。
 
1)会社のセクハラに対する方針、セクハラ行為者への厳正な対処の方針の明確化と周知・啓発
2)セクハラ相談窓口の設置
3)セクハラへの迅速かつ適切な対応
4)相談者のプライバシー保護や不利益扱いの禁止
 
もし、会社にセクハラ防止規定、相談窓口がないのであれば、上記指針にそって、すぐ作成し、社員全員に周知しておいた方がいいでしょう。
どのような防止規定を作ればいいのかわからなければ、当事務所までお気軽にご相談ください(022-779-5431)。
 
実際の調査、事実認定や処分のポイントについては次回にお話しますね。
 
それでは、また。

出来事と自分との間に4

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平成25年10月27日(日) 

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

3回にわたって続けてきました「出来事と自分との間に」のお話、今回で完結です。

よろしければお付き合いください。

※出来事と自分との間に3  

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

僕は、これからいったいどう行動すればいいのだろう?

店の天井をみあげて、しばし考えたが何も思い浮かばなかった。

 

先生は、そんな僕の様子をみて、こう言った。

「これからどう行動するのか、それは、起きた出来事にヒントが隠されていることが多い。

それも辛かった出来事、苦労した出来事に貴重なヒントが含まれていることが多いんだ。

 

『起きる出来事には何か意味がある』 そう考えてみてはどうだろう。

『意味のないことは起こらない』 そう受け止めてみてはどうだろう。

 

これはあくまでフィクションなのだが、そう考えてみることで、過去の出来事を活かし、明日の一歩に向けて、見えてくるものがあると私は思っている。

 

「A社の採用試験に落ちた」

その事実に正対し、そこに何か意味を見つけることができないだろうか。

次への行動のヒントを見つけることができないだろうか。

 

辛い出来事、思い通りにいかない出来事は起こる。必ず起こる。

それに対してどのように受け止め、どう行動するのかが、問われてくる。

 

出来事にのみ込まれて、自分を否定してうずくまるのだろうか。

それとも、出来事を受けとめ、その意味をみつけ過去の出来事を活かし、主体的な行動によって出来事をつくりあげていくのか。

 

君がA社の採用試験に落ちたことは事実だ。これまで何社も落ちてきたことも事実だ。

しかし、それは君が何度も真剣にチャレンジし、トライし、アタックしてきたことの証でもある。

何ら自分を恥じることもない。むしろ素晴らしいことだ。

これからもダメだなんて悲観することなんてない。

これまでの経験を活かして、角度を変えて、さらにチャレンジをし続ければいい。

そう、君の物語はまだまだこれからなんだから・・・」

 

先生は、まるで先生自身に言い聞かせるようにそう言った。

 

「僕の物語・・・」

 

胸の奥から熱いものが急にこみ上げてきた。

「そうだ。こんなところで僕の物語を終わりにしてはいけない。終わりにしてなるものか!」

右手の拳を強く握りしめて僕はそう思った。

 

先生は、そんな僕の様子を見て、にっこりとして軽く何度もうなずき、「よし、じゃあ、シメにずんだ餅でも食べようか」と楽しそうに言った。

 

 

(おしまい)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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お付き合いいただきありがとうございました。

 

それでは、また。

出来事と自分との間に3

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平成25年10月20日(日)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

先日、家族に日本海に沈む夕日を見せてあげたくて、鶴岡・湯の浜に行ってきました。

太陽が水平線に沈む様子はとてもきれいでした。

 

さて、引き続き、「出来事と自分との間に」のお話です。

※「出来事と自分との間に」「出来事と自分との間に2

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「出来事を点で捉えるのではなく、線で捉えるということなのでしょうか?」

僕は、先生にたずねた。

 

「そうだ。一つの出来事だけを取り出して、一喜一憂するのではなく、大きな流れの中で受け取るということだ。

「塞翁が馬」の話をしたが、君自身のこれまでの経験で、『あの辛い出来事が実は後になって活きてきた』という体験はないかな」

 

僕は少し考えて中学生のころを思い出した。

「あ、そういえば、中学生のころ、剣道部の試合でぼろ負けをして、悔しくて、悔しくて。でもそのことがきっかけで必死に稽古に打ち込み強くなりました」

 

「そうか。ぼろ負けしたという出来事が君が強くなったきっかけになっているのだね。

出来事は、流れの中で起こっている。複雑な因果の流れの中で起こっているものだ。

そして、ここが大切なところなのだが、「自分から」も出来事をつくりあげていくことができるということだ。

ただ出来事を受け取るだけのではなく、「自分から」出来事の種まきをすることができるんだ。

 

君の中学生の体験では、試合に負けた出来事だけではなく、その出来事を受けて君が剣道の稽古を必死になってやったことが、君を強くした原因になっている。」

 

そう言って、先生は出てきた肉厚の牛タン焼きに手を伸ばした。

 

「そうそう、元気を出したいときは、肉を食べるといいぞ。特にいい肉をだな」

といいながら美味しそうに牛タンを先生は食べていた。

 

「起きた出来事をどう受け止めるかとあわせて、これから自分がどう行動をするかも自分次第なんだ。選べるんだよ。

もちろんすべての因果を支配することはできない。自分のコントロールできない予想外の出来事はやはり起きる。

しかし、その一方で、自分の意思と行動によって出来事をつくりだすこともできる。

出来事をどう受け止めるかの自由と、自分がこれからどう行動するかは自分に委ねられているんだ」

 

そして、先生は、少し間をおいて、僕の目をみつめてこういった。

 

「さあ、そうだとしたら君はこれからどう行動すればいいのだろう?」

 

 

(つづく)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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それでは、また。

 

あなたが幸せでありますように!

出来事と自分との間に2

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平成25年10月13日(日)

 

こんばんは。

神坪浩喜です。

 

今日は、宮城県と山形県の県境にある山形神室(1344m)に登ってきました。稜線を歩くのですが、仙台側も山形側も見えて素晴らしい眺めでしたよ。 

さて、前回の「出来事と自分との間に」のお話の続きです。

よろしければお付き合いください。 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「出来事と自分との間に2」

 

気仙沼産のサンマだろうか、とても脂がのっていてうまかった。

先生は、美味しそうにそれを口にいれて、ビールを一飲みして話を続けた。

 

「出来事と自分との間にスペースができた。次は出来事をひいて眺めてみよう。その出来事を紙に書いてごらん。そしてそれを○で囲む。

例えば、A社の面接試験で、不採用になったと。ちょっと痛いが書いてみよう」

 

いきなり先生は、お品書きの紙をひっくり返して、胸ポケットのペンを取り出して書きだした。

 

「そして、少し離れたところに、「自分」と書いてこれも○で囲む。○で囲んだ出来事に対して、「自分」はどのように受け止めようか。思いつくまま、あげられるだけの選択肢をあげてみてごらん。

自分はダメだ、能力がない、運がない、そこから何かを学ぶことができないか、この会社は縁がなかった・・・

 

いろいろな見方があるだろう。出来事の受け止め方は、決して一つではなく、いくつかあることに気づくだろう」

 

ペンを走らせた後、先生は、顔をあげて僕の目を見ながら言った。

「いくつかの選択肢があるのであれば、自分にとって望ましい見方を選ぶだけだ。そう、君は好きに選べるのだから・・・」

 

僕は、出来事から、自動的に自分は幸・不幸は決まるものだと思っていた。そんなことは当たり前だと思っていた。

でも、違うのだろうか。今まで別の見方があることに気づいていなかったのだろうか。

僕は、先生の穏やかな目を眺めながらそんなことをぼんやり思った。

 

先生は、そんな僕の考え込んでいる様子を楽しむかのように間を開けて、続けた。

「『塞翁が馬』の故事を知っているかい。この故事は、出来事について、単純に割り切れないことを示している」

 

「あれ、えっと、馬が逃げたという話でしたっけ?」

 

「まあ、そうだ。昔中国に塞翁という老人がいた。ある日塞翁が飼っていた馬が逃げた。それはアンラッキーなこと?

いいえ。逃げたその馬が駿馬を連れてきた。それはラッキーなこと?

いいえ。塞翁の息子が駿馬に乗っていたら落馬して足の骨を折った。それはアンラッキーなこと?

いいえ。足の骨を折ったために、息子は兵役を免れて戦死せずにすんだ。

 

その時は、幸運だと思っていたことが、不運につながったり、不運だと思っていたことが幸運につながったりと、出来事は、単純にとらえられないんだ」

 

君がA社の採用試験に落ちたことは、この一点をとらえれば確かにアンラッキーで不幸な出来事かも知れない。

しかし、そこから、幸せな出来事につながることもあるんだ。ということは、今、悲観なんてしなくてもいいんだよ。そこからつながる幸せもあるのだから」

 

周囲は騒がしいはずだったが、いつの間にか、僕には先生の声だけが聴こえていた。先生は、少し目をそらして、話を続けた。

 

「私が昔学生のころ、私の友だちが、失恋をして「もう自分は結婚なんてできない」と酷く落ち込んだことがあった。その落ち込み方は「大丈夫かな?」と心配になるくらいだった。友だちが惚れ込んだ女性は確かに派手で見た目はよかったが、私の目から見て、「どうなんだろう」と内心疑問に思っていた。

 

しかし、彼は、「もう自分なんて…」と言っていた癖に、失恋後により優しくなれたせいもあるのか、すぐに失恋した女性より、彼にふさわしい素晴らしい女性に巡り合って、一緒になったんだよ。失恋が幸せにつながっていたんだ」

 

先生の頬が少し頬が赤く見えたのは、アルコールのせいだけではない気がした。

もしかするとこの話は、先生の友だちではなく、先生自身の話なのかも知れない。

僕は、そうとは気がつかないふりをして、先生の話を笑顔で聞いていた。

 

        (つづく)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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それでは、また。

 

あなたが幸せでありますように!

出来事と自分との間に

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平成25年10月7日(月)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

秋も深まってきましたね。

昨日の晩御飯は、下の子が「栗ごはんが食べたい!」というので、栗ごはんとなりました。妻と下の子と私とで、生栗の皮をむきました。

私は、はじめて生栗の皮むきをしたのですが、これって結構大変な作業なのですね・・・。

気仙沼産のサンマ焼きといも煮とあわせて、食卓で秋を感じる晩でした。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

さて、生きているといろいろと辛い出来事が起きることもあります。そのとき、どのような心の持ち方をすればいいのでしょうか。

そんなことを考えて作った小さなお話です。よろしければお付き合いください。

 

==============================

 

「そうか、そんな辛いことがあったんだね」

と先生は穏やかな声でそういった。

 

僕はなかなか就職がきまらず落ち込んでいた。何社も落とされていた。

ようやく最終面接にこぎつけ、今度こそ、と思った会社から、今日あっさりとした文面の不採用通知がとどいた。

 

自分に価値がないような、社会で必要とされていないように感じていた。

「自分はダメな人間だ」と自信をなくしていった。

 

「どうせ僕なんて・・・」と思いつつ枯葉が落ちる道をうつむきながら歩いていたとき、偶然先生に会ったのだ。

思いつめていた顔をした僕を先生は気遣ってくれたのか、先生は「ちょっと付き合え」と食事にさそってくれた。

 

秋の焼き魚のかおりのする居酒屋で、僕は、これまでの就職活動のことを先生に話していた。

 

「こう考えてみてはどうだろう。出来事と自分との間にはスペースがあると。辛い出来事が起こったとき、例えば今の君のように、就職がうまくいかないとき、自分自身が否定されるような感覚に陥るかも知れない。

でも、その出来事はただの出来事で君自身ではない。君自身が、否定されたわけではない。

出来事それ自体は、ニュートラルだ。それに意味を与えているのは、自分自身なんだよ」

 

ビールジョッキを傾けて、一呼吸を置いて先生は続けた。

 

「普通、人は、ある出来事から無意識に意味を与え、感情を持つ。そして、自分が感じていることが変えられないかのように思ってしまう。しかし、出来事に対する意味づけは、人それぞれであり、自分次第なんだ。

例えば、楽天がリーグ優勝した一つの事実で、楽天ファンは喜んでいるが、ロッテファンは悔しがっているだろう。またおなじ楽天ファンでも、喜び方は人それぞれだ。ちょっと両手をだしてごらん」

 

僕は、「いったいなんだろう」と思ったが素直にジョッキから手を放して両手をさしだした。

 

「出来事が左手で、自分が右手だ。そう考えてみよう。出来事は起きるが、右手の自分は別に存在しているのだ。

左手の出来事から、右手の自分が何を受け取るかは自分次第なんだ」

 

僕は、両手を眺めながら「左手が出来事、右手が自分・・・」とつぶやいた。

 

先生は、そんな僕の様子を見ながら続けた。

「辛い出来事があると、ときにその出来事に自分がのみこまれそうになる。確かに辛いことは起きる。思い通りにいかないことの方が多いかもしれない。そして、出来事は変えられない。今は特に生きづらい世の中かもしれない。

 

でも、出来事と自分にはスペースがあるんだ。出来事と自分は別ものなんだ。

そして出来事の受けとめ方は自分でコントロールできるんだ」

 

「起きた出来事は変えられない。でも出来事の受けとめ方は自分次第・・・。

そうだとすると、先生、僕は今、自分に起きている出来事をどう受け止めればいいのだろう」

僕は開いていた右手を握りしめて言った。

 

「そうだ。『この出来事をどう受け止めればいいのだろう』この質問を自分に言い聞かせることが出来たならば、そのとき出来事と自分の間にスペースができる。出来事にのみこまれずに、主体的に生きることができる。うん、その調子だ」

先生は、にっこりとほほ笑んでそう言った。

 

(つづく)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

それでは、また。

 

あなたが幸せでありますように!

出来事と自分との間に

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平成25年10月7日(月)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

秋も深まってきましたね。

昨日の晩御飯は、下の子が「栗ごはんが食べたい!」というので、栗ごはんとなりました。妻と下の子と私とで、生栗の皮をむきました。

私は、はじめて生栗の皮むきをしたのですが、これって結構大変な作業なのですね・・・。

気仙沼産のサンマ焼きといも煮とあわせて、食卓で秋を感じる晩でした。

 

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さて、生きているといろいろと辛い出来事が起きることもあります。そのとき、どのような心の持ち方をすればいいのでしょうか。

そんなことを考えて作った小さなお話です。よろしければお付き合いください。

 

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「そうか、そんな辛いことがあったんだね」

と先生は穏やかな声でそういった。

 

僕はなかなか就職がきまらず落ち込んでいた。何社も落とされていた。

ようやく最終面接にこぎつけ、今度こそ、と思った会社から、今日あっさりとした文面の不採用通知がとどいた。

 

自分に価値がないような、社会で必要とされていないように感じていた。

「自分はダメな人間だ」と自信をなくしていった。

 

「どうせ僕なんて・・・」と思いつつ枯葉が落ちる道をうつむきながら歩いていたとき、偶然先生に会ったのだ。

思いつめていた顔をした僕を先生は気遣ってくれたのか、先生は「ちょっと付き合え」と食事にさそってくれた。

 

秋の焼き魚のかおりのする居酒屋で、僕は、これまでの就職活動のことを先生に話していた。

 

「こう考えてみてはどうだろう。出来事と自分との間にはスペースがあると。辛い出来事が起こったとき、例えば今の君のように、就職がうまくいかないとき、自分自身が否定されるような感覚に陥るかも知れない。

でも、その出来事はただの出来事で君自身ではない。君自身が、否定されたわけではない。

出来事それ自体は、ニュートラルだ。それに意味を与えているのは、自分自身なんだよ」

 

ビールジョッキを傾けて、一呼吸を置いて先生は続けた。

 

「普通、人は、ある出来事から無意識に意味を与え、感情を持つ。そして、自分が感じていることが変えられないかのように思ってしまう。しかし、出来事に対する意味づけは、人それぞれであり、自分次第なんだ。

例えば、楽天がリーグ優勝した一つの事実で、楽天ファンは喜んでいるが、ロッテファンは悔しがっているだろう。またおなじ楽天ファンでも、喜び方は人それぞれだ。ちょっと両手をだしてごらん」

 

僕は、「いったいなんだろう」と思ったが素直にジョッキから手を放して両手をさしだした。

 

「出来事が左手で、自分が右手だ。そう考えてみよう。出来事は起きるが、右手の自分は別に存在しているのだ。

左手の出来事から、右手の自分が何を受け取るかは自分次第なんだ」

 

僕は、両手を眺めながら「左手が出来事、右手が自分・・・」とつぶやいた。

 

先生は、そんな僕の様子を見ながら続けた。

「辛い出来事があると、ときにその出来事に自分がのみこまれそうになる。確かに辛いことは起きる。思い通りにいかないことの方が多いかもしれない。そして、出来事は変えられない。今は特に生きづらい世の中かもしれない。

 

でも、出来事と自分にはスペースがあるんだ。出来事と自分は別ものなんだ。

そして出来事の受けとめ方は自分でコントロールできるんだ」

 

「起きた出来事は変えられない。でも出来事の受けとめ方は自分次第・・・。

そうだとすると、先生、僕は今、自分に起きている出来事をどう受け止めればいいのだろう」

僕は開いていた右手を握りしめて言った。

 

「そうだ。『この出来事をどう受け止めればいいのだろう』この質問を自分に言い聞かせることが出来たならば、そのとき出来事と自分の間にスペースができる。出来事にのみこまれずに、主体的に生きることができる。うん、その調子だ」

先生は、にっこりとほほ笑んでそう言った。

 

(つづく)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

それでは、また。

 

あなたが幸せでありますように!

サルスベリが揺れている

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平成25年8月28日(水)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

日中は、まだまだ暑いのですが、朝晩は涼しい風がふくようになってきました。

家の近くに、紅色のサルスベリが綺麗に咲いています。そんなサルスベリと友人の実話をもとにして、小さな物語をつくってみました。

よろしければお付き合いください。

 

========================

 

「サルスベリが揺れている」

 

霊柩車がホーンをならして、ゆっくりと動きはじめた。

夏の日差しがなお強いが、盛りは過ぎている。

おばあちゃんが育てた紅色のサルスベリが風にゆれていた。

 

僕は、その車をぼんやりと眺めていた。

おばあちゃんは、優しいひとだった。

もういい大人なのに、僕がちょっと顔を出すと、好きなものを買っておいでとお小遣いをくれたりした。

 

おじいちゃんもおばあちゃんが眠るその車を見ている。

その立ち姿は、いつものおじいちゃんと違って凛としていた。

 

おばあちゃんより、おじいちゃんが先に逝くものとみんな思っていた。

おじいちゃんもおばあちゃんでさえもそう思っていただろう。

おばあちゃんは90歳をすぎても元気で、しっかりしていた。

おじいちゃんは、病気がちであり、物忘れもひどく、孫の僕のことさえ忘れていたのだ。

 

ところが、おばあちゃんの方が、ぽっくりと先に逝ってしまった。

 

いったいあの二人は何年連れ添ったのだろう。

おばあちゃんが20のときにお嫁に来たというから、もう70年も一緒にいるのか。

70年間、二人の間にいったいどれだけの出来事が降り積もってきたのだろう。

おばあちゃん、幸せだった?

 

病気で具合が悪いはずなのに、僕の顔も忘れてしまうくらいなのに、おばあちゃんを見送るおじいちゃんは、しっかりとしていた。

まるで「大丈夫だよ」とおばあちゃんに言っているかのようだった。

 

おじいちゃんは、ずっとおばあちゃんが眠る車を見ていた。

遠ざかる車を眺めていた。

 

いつしか車は見えなくなった。

それでも、ずっと見ていた。車が見えなくなったところを、彼は優しく見ていた。

 

 

ずっと、ずっと・・・。

 

 

おばあちゃんが好きだった紅色のサルスベリが、静かに揺れていた。

 

 

(おしまい)

 

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それでは、また。

 

あなたが幸せでありますように!

恩師のことば

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平成25年8月12日(月)

 

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

10日は、岩手県北上市で東北大学無料法律相談所の出張相談でした。出張相談は4年生の引退相談でもあります。

4年生のみなさん、お疲れさまでした。3年半、本当によくがんばりましたね。

 

翌日、ホテルの朝食のときに、所長の水野紀子先生とゆっくりお話する機会があり、水野先生から、先生の恩師の加藤一郎先生についてのお話をうかがいました。

そのお話がとても素敵でしたので、そのお話と水野先生が書かれた「恩師を語る」という記事をもとに、物語をつくってみました。

 

========================

 

 

東北大学法学部長の水野紀子が、パソコンの画面から視線を移し、研究室から見える銀杏の緑を眺めていたとき、研究室に東北大法学部4年の倉橋美咲が訪ねてきた。折り入って相談があるというのだ。

 

美咲は、優秀な学生で、紀子も研究者の素質があると感じていた学生だった。

美咲自身、民法研究の面白さを知って、研究者の道も考えていたようだ。

ただ、美咲は入学当初から公務員になることを考えていたこともあり、また結婚して温かな家庭を持つことも夢であった。

 

そんな美咲が、紀子のもとに、思いつめたような顔で自分の進路について相談に来たのだ。

「水野先生、女性の研究者は、家庭との両立は難しいのでしょうか。私にできるのでしょうか」

 

紀子は、美咲の言葉を受け止め、しばらく間を置いて静かにこういった。

 

「倉橋さん、女性だからといって、研究者の道をあきらめる必要はありません。

もちろん、家庭を持ちながらの研究は、大変なことです。

でも、研究者だからといって家庭を持つことができないわけでもありません。

子どもの成長を見ることは嬉しいことですし、結婚して子どもを育てながら研究を続けることは、研究者としての深みにもつながることですよ。

本当に研究をやりたいのなら、がんばってみませんか。あなたには研究者の素質があると思います」

 

こういいながら、紀子は、30年以上も前のあの光景を思い出していた。20代前半のころだ。

 

あの時、紀子は、東大本郷の銀杏並木の下をうつむきながら歩いた後、加藤一郎教授の研究室の扉の前でしばし立ちすくんだ。

紀子は研究者の道に進むかどうか迷っていた。当時、女性が研究者になる道は狭く閉ざされていた。

あの頃、すでに戦後30年以上経っていたとはいえ、まだ女性の研究者はごくわずかしかいなかった。

 

そもそも当時東大法学部で女子学生は50名に1人という割合で、希少な存在だった。

研究者になるためには、誰かの教授のもとで、研究をしなけければならないが、多くの教授の頭に「女性研究者」という概念がなかった。弟子につくこともままならなかった。

 

研究者になろうと思って、教授に相談しようとしても、「育てても就職先がないから、女性の弟子はとらないんだよ」という話や「一生結婚しないことを約束するならいいが、それでなければダメだ」という友人の話を聞いて、紀子は暗くなった。

 

あの加藤先生がそのようなことを言うとは思えないが、女性が研究者になるには、相当な覚悟が求められる時代だった。

 

しかし、私は研究を続けたい。紀子が民法のことを学べば学ぶほど、民法学者加藤一郎の偉大さ、奥深さ、凄みを感じていた。

私はその深淵をもっとのぞいてみたい。もっと加藤先生のもとで、研究を続けていきたい。

そう紀子は、強く思うようになっていた。

 

でも、結婚して子どもを持ち、温かな家庭ももちたい。

「指導教授から一生結婚しないことを約束させられるなんて」

両立はできないことなのだろうか・・。

私は欲張りなのか、結婚や子どもは諦めなければならないのか。紀子は大きくため息をついた。

 

加藤一郎教授の研究室の扉をノックするとき、胸の鼓動が高まった。

加藤先生は、何とおっしゃるだろうか・・・。

 

「加藤先生、私は研究を続けたいです。先生のもとで研究を続けて、研究者になりたいです。女性の私にできますか?」

穏やかに笑顔で迎えてくれた加藤教授に、紀子は胸の思いを一気にはきだした。

 

加藤教授は、紀子の胸の奥の思いを見透かしたように、優しい笑顔で紀子の目をまっすぐ見ながらこう言った

 

「法律の論文は、技術的なもののように思うかもしれません。

ですが、債権譲渡のような技術的なことを書いているようでも、どうしてもそれを書いた人間が出てしまいます。

優しい人の書いたものは優しい論文になるし、そうでない人の書いたものはやはりそうなってしまう」

 

紀子はうなずいた。確かにそうだ。加藤先生の論文には、鋭い文章の中にもどこか加藤先生の温かな人柄がにじみ出ている。

 

加藤教授は、穏やかにしかし力強く言葉を続けた。

 

「そしてできればあなたには、人間らしい顔をした論文を書いてもらいたいと僕は思います。

人間らしい論文を書くためには、背景に人間らしい生活を送る必要があります。

人間らしい生活というのは結婚して子どもを持つことだと僕は思います。

あなたは女性だから大変かもしれないけれども、がんばりなさい。

僕もできるだけのことはするから」

 

紀子は、その言葉に胸があつくなった。しばらく何も言えなくなった。

その後、言葉にならない言葉をようやく喉の奥からふりしぼって声に出した。

 

「加藤一郎先生、ありがとうございます。本当にありがとうございます・・・」

 

私は、幸せものだ。こんな素晴らしい恩師に巡り合えるなんて・・・。

あふれてきた涙が、頬をつたってこぼれ落ちた。

 

 

「僕もできるだけのことはするから」

 

その言葉のとおり、加藤先生は、その後ずっと私のことを支えてくださった。

紀子が、自分の能力を超えた仕事ではないか、と相談すると加藤先生は「背伸びをしなさい。背伸びをしないと背は伸びません」と優しく励ましてくれた。

感情的な文章を書くと「少し抑えて書いて、バネもためたほうが力がでますよ」と穏やかに諭してくれた。

そう、あれから、ずっと私のことを支えてくださったのだ。

 

 

加藤一郎先生・・・

先生のおかげで、今の私がここにいます。

少しでも私は先生に近づけたのでしょうか。

 

笑顔になって部屋を出ようとする美咲の後ろ姿を見送りながら、紀子は、静かにつぶやいた。

 

研究室の窓から、まっすぐに空に伸びている銀杏の木を眺めながら、紀子は、亡き恩師が今も自分を見守ってくれていることを感じていた。

 

 

(おしまい)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

それでは、また。

 

あなたが幸せでありますように!

ロックのはなし3-自分との約束

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平成25年7月28日(日)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

2回に渡って、イギリスの哲学者、ジョン・ロックさんに「法は国家を縛る」という立憲主義にまつわる話を語っていただきました。

 

・ジョン・ロックのはなし-自然権・社会契約説・抵抗権

 

・ジョン・ロックのはなし2-法の支配

 

いずれも「市民政府論」ロック著(角田安正訳 光文社古典新訳文庫)を参考にしておりますが、今回は、全くの私の想像のお話です。

私の中のロックさんが、こんなことを語りはじめましたよ。よろしければお付き合いください。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

ロックさんは、立憲主義について熱く僕に語ったあと、一つ大きな息をついて、こう言った。

 

私は、権力も人が行使するものである以上、法で縛っておくことが必要だといった。

人は愛すべき存在だ。しかし、一方で、弱い存在でもある。

 

場の空気やムードで、同調したり、よく考えずに判断することもある。

自分の利益だけを考えて、他の人が大切にしていることに思いもよらないこともある。

また、誰か偉い人、力のある人の話をうのみにしてしまうこともある。

 

 

自分の人生を誰かに簡単に預けないでほしい。自分の手でコントロールしてほしい。

常に自分の頭で考えて、冷静に判断するようにしてほしい。

 

誰かを信じるということは美しいことだ。友だちや家族を信じるということは素晴らしいことだ。

そして時に、たたただ相手を信じるということも必要だろう。

 

 

しかし、自分の頭で考えた上で、判断することを原則にしてほしいのだ。

愛すべきものも、誤った判断をすること、間違ってしまうことがある。

 

 

それから、国家が憲法を持つように、自分の心の中にも、誓いや約束を持つがいい。

自分の中で、何が大切で、何を守らなければならないのか、何をすべきか、何をしてはならないのかを、

自らの心に問いかけ、言葉にして明確にしておくのだ。

 

そうすることで、君は、自らをコントロールすることができるだろう。

もちろん、何か大切なものを守るためには、絶え間ない努力が必要だろう。

きっと試練もあるはずだ。

しかし、大切なものを意識し、守ろうと生きることは、自分らしく生きることにつながるはずだ。

 

「大切なことをきちんと言葉にしておく、それを守る」

 

それは、国家にとっても、個人にとっても重要なことなんだと私は思う。

 

 

そう静かに話すロックさんの目の奥から、光るものが見えた気がした。

 

(おしまい)

 

=============================

 

お付き合いいただきありがとうございました!

 

 

それでは、また。

 

あなたが、心穏やかでいられますように!

ジョン・ロックのはなし2-法の支配

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平成25年7月20日(土)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

前回(ジョン・ロックのはなし-自然権・社会契約説・抵抗権)に引き続き、イギリスの哲学者、ジョン・ロックのお話です。

ロックさん、ますます熱く語っていますよ。

 

==============================

 

「法の目的は、個人の自由を保ち、守るためにある・・・か。

ロックさん、なかなかカッコいいことをいいますね!」

 

ロックさんは照れてニコニコしている。笑顔が意外に可愛い。

 

「あの、ロックさん、法で権力行使に縛りをかけるということですが、それは、昔のわがままで横暴な王様の話だからで、国民から選挙で選ばれた人、みんなで選んだ人からなる政府だったら、ちゃんと権力を行使してくれそうだから、縛る必要なんてないんじゃないですか?」と僕はたずねた。

 

ロックは、「若者よ、いい質問だ!」と褒めてくれた。

 

法の目的は、個人の自由を保ち、守るためにある。

では、個人の自由を奪ったり、侵害するものは何か?

それは、時に他人であり、時に国家でもある。

 

人々の自由を奪うのは、個々の他人とは限らない。国家も個人の自由を奪うことがある。

そして、人々の信託によって成立した国家、国民から選ばれた代表者による国家であっても、権力行使によって、個人の自由を奪うことがあるのだ。

 

たしかに、横暴な王と比べれば、民主的な国家は、個人の権利侵害をする可能性は低いと言えるかも知れない。

しかし、民主的な国家であっても、その権力行使によって、個人の自由が奪われる危険性は常にあるだろう。

 

権力を行使する者は、神ではなく人なのだ。

 

人は自己の利益に左右されるので、どうしても自己本位の判断にとらわれる。

人はわが身がかわいい。だから自分のことになると、とにかく情念や復讐心に駆られて行きすぎに走ったり、逆上したりしがちである。

一方他人のことになると、無頓着や無関心が原因となって不行き届きが起こる。

 

権力行使を行うのが人である以上、たとえ人民が選んだ素晴らしい政治家によったとしても、法による縛りがなければ、個人の自由が侵害される可能性が高いのだ。

 

特に、国民の多くから支持をうけた政府や権力者の権力行使には、勢いがある分、個人への権利侵害が行われても、見過ごされる危険性が高いともいえる。

自らの権力行使に自信がある分、権力行使への批判に耳を傾けることは難しくなる。

 

国家の全ての権力は、個人の自由のために奉仕されるべきである。

それは恣意的に、また随意に扱ってよいものではない。法の縛りのもとで、行使されるべきなのだ。

 

「つまり、ロックさんて、人も信頼しないし、国家も信頼していないのですね~。もしかして疑い深い人?」

僕は偉人に対して、思い切り失礼なことを言った。

 

ところがロックは、むしろ嬉しそうな表情をした。

 

そうだ!

人を完全に信頼しないこと、そこが重要だ。私は、人も、権力者も信頼していない。

完全には信頼していない。完全に誰かにまかせてしまってはいけない。

自分の自由を誰かに預けてしまってはいけないのだ。

どうしても人には弱さがある。不完全な存在だ。だから、ある人のやり方にすべてまかせて放っておくと、いつしか個人の自由は、他者や国家によって侵害されてしまうのだ。

人による支配では、とても個人の自由は守れない。

 

では、どうするか?

そうだ、法によるコントロールだ。

 

「あ!それって『法の支配』っていうものですか!」と思わず僕は叫んだ。

 

うむ。

法とは、国家を縛る法、憲法だ。

法の支配とは、憲法によって、国家権力を縛り、コントロールをするということに本質がある。

このことを知っておいて欲しい。そして「法の支配」を実現することが、個人の自由を守ることになるということをぜひわかって欲しい。

 

そういったロックの目は少年のようにキラキラと輝いていた。

 

参考文献「市民政府論」ロック著 角田安正訳 光文社古典新訳文庫

 

 

※関連のお話です。

 

民主主義と立憲主義のはなし

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平成25年7月19日(金)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

立憲主義について、子ども達に分かりやすく伝えられないかなと、考えています。

立憲主義の考え方の出発点となったといわれているのが、イギリスの哲学者、ジョン・ロックです。

「統治二論」(1690年)の中で、近代憲法の基礎となる考え方を世に出しました。

社会の教科書で出てきたかと思いますが、覚えていらっしゃいますか。

 

ちょっとここで、ロックさんに登場してもらいましょう。

 

「ロックさ~ん!」

 

ロックは、ドロンと僕の目の前に突然あらわれた。

 

「あの、ロックさん、あなたが国家を法で縛るという近代憲法の基礎となる考え方をつくったと聞いたのですが、いったいどんな考えを世に出したのですか?」

 

私を呼んだのは君か?

「国家を法で縛る」ということについて聞きたいということか。いいだろう。

私ももっと立憲主義の考えが理解してもらいたいと思っていた。

 

まずは、自然権についての話だ。すべてはここから始まる。

そもそも人は自然状態のもとで人間としての生存に不可欠の固有の権利を自然権としてもっている。これには、生命、自由、財産が含まれる。自然状態ではすべての人間が平等である。

 

いいかな。出発点は、個人には固有の権利がもともとあったということだ。

王によって与えられた訳ではない。だから王によって好き勝手に制約されてよいものでもない。

 

僕は、ロックの口から、本当に自然権の話が出てきたことに感動した。

「ロックさん、ありがとうございます!それが有名な自然権思想ですね。でも、現に、実際は国家があって、そこからいろいろと制限を受けていますよね。どうして国家があるのですか?自然状態だと自由きままでいいような気もしますが・・・」

 

「それはだな」とロックは子どもに言い聞かせるように話を続けた。

 

想像力を働かせて考えみるがいい。

自分が自由だということは、他の人も自由だということだ。みんな自由だ。みんな権利者だ。

自然状態に置かれているだれもが同じ立場にあり、しかも大半の人々は公正と正義を厳格に遵守しているわけではない。

そのような状態にあるとどうなると思う?力の強いもの、わがままな人に好き勝手にされて、自分の自由が脅かされないか?生命・身体・財産は危ういし、心もとなくないか?

自然状態というのは、ほかの人々から権利を侵害される危険が絶えずつきまとっている状態ともいえるのだ。

 

「う~ん。確かにそうですね。僕は押しが弱いから、強い誰かのいいなりになってしまうかも・・・」

 

ロックは、熱く語り続ける。

 

自然状態は、不安な状態だ。権利自由が守られている状態ではない。

そこで、人々は、自らの権利を守るために、お互いに契約を結んで政府をつくりあげた。

政府に権力を与えて、犯罪を犯した人を捕まえて処罰したりする力を与えた。

そうすることで、権力によって、安全や秩序が守られ、個人の自由が守られる。

 

政府は、人民の権利を守るために存在し、人民との契約、信託によって存在するものだ。

人間が、国家を結成し、みずからその統治に服す最大の目的は、人々の生命・身体・財産を守るためにあるのだ。

 

「あ!社会契約説ですね。王の権力は神から授けられたものだとする王権神授説に対抗したのですよね。でも実際に、契約ってあったのですか?契約書ってあるのですか?」

 

ロックは、ニコリとして質問に答える。

 

社会契約説は、理論の中のもので、実際に契約があったというのではなく、契約書もない。

国家権力について、こう考えてみてはどうかという提案だ。

こう考えることで、人民が国家権力をコントロールできる、政治のあり方を変えることができるということを言いたかったのだ。

こう考えることで、個人の権利自由を中心に考えることができるのだよ。ま、個人の権利を保障するための仮説だな。

でも、アメリカでは、社会契約説をもとに、実際に独立国家が作られていったのだ。

 

「なるほど。自分たちが、自分たちの権利自由を守るために、政府をつくったのだから、政府が自分たちの権利自由を侵害しないようにコントロールできるはずだと言えるのですね!」

 

ロックは、満足そうに頷きながら、話を続けた。

 

そうだ。政府が人々の信託を受けて成り立つものである以上、もし政府が権力をほしいままに行使して人民の権利を侵害した場合には、人民はそれに抵抗することができる。

場合によっては、そんな政府を否定して新しい政府をつくることができるのだ。

これを『抵抗権』という。これまで話してきた『自然権・社会契約説・抵抗権』のことを3つセットで覚えておくとよい。

 

もともと、国民には、固有の権利自由が保障されている。むやみに制約されてはならない。

権力の根拠は、国民に由来し、国民の信託にもとづく。

だから、権力は国民の権利自由を好き勝手に制限することは許されない。

好き勝手に制約しないために、法で権力行使に縛りをかける。

権力行使は、法にもとづくものとする。

 

法の目的は、個人の自由を奪うためではなく、個人の自由を保ち、守るためにあるのだ。

 

ロックは、僕の目を見つめながら、そう力強く語った。

 

(つづく)

  参考文献「市民政府論」ロック著 角田安正訳 光文社古典新訳文庫

 

つづきのお話です。

ジョン・ロックの話-法の支配

ジョン・ロックの話-自分との約束

立憲主義のはなし-謙虚さと理性

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平成25年7月14日(日)

 

こんにちは。 

神坪浩喜です。

 

11日は、日弁連弁法教育委員会で東京出張でした。

いつものように朝、日比谷公園をとおって弁護士会館に向かいます。

暑くて日比谷公園のねこのヒビちゃん(私が勝手にそう呼んでいます)もごろごろしていました。

 

思わず私はこうつぶやきます。

 

「あっ、ねこがねころんでいる」

 

・・・失礼しました!

 

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「立憲主義のはなし」

 

最近、憲法改正問題に絡んで、マイナーだった「立憲主義」という言葉に光があたるようになりました。

ちょっと難しい言葉ですが、憲法改正のことを考えるには、ぜひとも知っておきたい言葉です。

 

憲法は、個人が幸せに生きる上で大切な人権リストをかかげて、国家=権力が人権を恣意的に制限しないように国家を縛っています。

この考え方を「立憲主義」といいます。日本国憲法は、「立憲主義」をとる立憲的意味の憲法です。

 

どうして「立憲主義」となっているのでしょうか?

 

私は、国家(権力を行使する人たち)が、謙虚さと理性を維持するために、そして個人の尊厳を守るために、採用されたものだと思っています。

 

どんな人も完全ではありません。

どんなに素晴らしい人でも、間違ってしまうこともあります。権力を行使するのも人です。

どんなに素晴らしくて聡明な政治家でも完全ではありません。

みんなでよく議論してもそうです。ですから権力行使も、行き過ぎたり間違ってしまうかも知れません。

 

間違わないように、国会では、十分に審議されるようなしくみがあるはずです。

それでも、完璧だとは言い切れません。またどんなに優れた国会議員もやはり人です。

 

権力行使は、集めた情報を前提に、ある一定の見方からなされるものです。

もちろん、それは国民にとてよかれと思ってなされるものです。

しかし、別の情報が入ってくれば、別の見方をすれば、判断も変わってくる可能性があります。

どれだけ慎重にしても、みんなの意見を聞いたとしても、多数決で決めても、間違ってしまう可能性は残るのです。

 

そして、多数決でも奪ってはならない個人の自由があります。

例えば思想、内心の問題に踏み込んで制限することはできません。

そのことを忘れて、みんなで決めればいいだろうと、それは個人のわがままでしょうと、本来自由であるはずの個人の自由を奪うこともありえます。

 

人がどんなに努力をしても、人が人である以上、間違ってしまう可能性が残るという現実。

多数派の考えでも、奪ってはならない少数者、個人の自由が存在すること。

 

そのことは考えてみれば当たり前のことですが、ついつい忘れてしまいがちなことです。

人は、自分の考えていることは正しいと思いがちですし、自分が多数派に属するときには、なおさら多数派の考えは正しいものと思いがちです。

 

「間違ってしまう可能性があること」

「多数決でも奪ってはならない自由があること」

 

そのことを忘れてしまったとき、すなわち、自分に限って間違っていない、正しい、大丈夫だと思いこんだとき、多数派の考えで、押し切っても大丈夫と思ったとき、個人の自由な領域に、多数派の「正義」が押し付けられることになります。

 

憲法は、権力を行使するものが、「間違ってしまう可能性」「多数決でも決められないことがあること」

を忘れないために人権リストをかかげていると言えます。

人の不完全さを前提にして、個人の奪ってはならないものを奪ってしまわないようにしているのです。

 

自分自身のことを考えても、冷静に判断をしようと思っても、冷静に判断しにくい状況におかれたり、周りからのプレッシャーをうけたり、みんながそう言っているからというようなことで、冷静に判断できないこともあります。

 

そして「今は特別なんだ」「○○さんもそう言っているし」等と安易に例外をもうけて、自分の良心に反する行動をとってしまうこともありました。

 

そんなときに、自分自身への約束として「○○は絶対にしない」と言葉にして誓い、紙にでも書いておくことで、なんとか踏みとどまることもできたりします。

 

 

国民主権の国家では、憲法は、自分が自分に対して約束をしているようなものかも知れません。

「ま、これぐらいいいじゃない」「公のためには個人の犠牲も」と思った時に「いや待て、これはしてはならない」と、明記していることで、踏みとどまることができるのです。

 

「立憲主義」

それは、謙虚さと理性を維持するために、そして個人の尊厳を守るために。

 この機会に、立憲主義が、多くの人に理解してもらえるといいなと思っています。

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それでは、また。

 

あなたが幸せでありますように!

 

 

※関連のお話です。

民主主義と立憲主義のはなし

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平成25年7月7日(日)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

梅雨まっただ中ですが、昨日、今日と真夏のような暑さですね。

 

6月下旬に、うちの事務所から見える泉ヶ岳(1172m)の頂上まで初めて登りました。

結構きつかったですが、登った山からの眺めと山を降りた後にふり返って山を眺めたときの印象は、何ともいい感じでした。

 

「あの山を登ったんだ。結構、自分がんばったね」と。

 

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さて、ドリアン助川さんの「夕焼けポスト」(宝島社)を読んでみました。心動かされるところがいくつもあって、よかったです。

その中のある言葉に思わずひきつけられました。

 

主人公が、自分の手の形がみんなと違うということで、男の子達から、からかわれていることに悩んでいる女の子に対して手紙を書くのですが、主人公は、女の子に、本当の「大人」はからかったりしないよと励まします。

 

「大人とは、人を見た目だけではなく、内側の、心のあり方も含めて評価できる人のことを言います。

大人になればなるほど、どんな心を持ち、どんな温かさを持っているかということが大事になってくるのです」

 

「大人にはもうひとつの特徴があり、それはいろいろな角度でものが見られるということです」

 

そうですね。

見た目ではなく、表だけではなく、心のあり方、真意を見ようとすること、いろいろな角度でものごとを見ることは、とても大切なことだと実感しています。

 

そういいながら、私自身、ほんものの「大人」になっているかなと自問すると、正直、時に子どもっぽくなっている場面も思い出されて、恥ずかしくなりました。

 

 

私は、つい、外見や表にあらわれた言葉だけから、表層的に物事をとらえて、真意を見過ごしたり、一面的な見方にこだわって、別の見方があることに気がつかずに、自分の見方だけから、評価や判断をしてしまいがちでした。

 

そして、それが時に、他者との関係を冷たく、とげとげしくさせる原因になったりします。

そうなってしまうと、お互いに辛いですよね。

 

外見だけではなく、表にあらわれた言葉だけではなく、心のあり方、芯を見ることができること、一面的な見方ではなく、いろいろな角度から、柔軟に、ものごとを見ることができること。

それが出来たら、他者にも自分にも優しくいられそうですよね。温かなつながりも築きやすいことでしょう。

 

芯を見ること、いろいろな角度から見ること。

 

それが、習慣になって自然にできるようになると、きっと素敵な大人になれそうです。

 

私も、がんばろうと思います!

 

 

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毎年恒例の法教育イベント、仙台弁護士会ジュニアロースクールが近づいてまいりました。

今年は、7月27日(土)の予定です。

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1か月をきり、法教育委員会の若手弁護士のみなさんが準備にがんばっていますよ。

宮城県内にお住まいで、中高生のお子さんがいらっしゃる方は、

夏の思い出づくりにおススメしてみてはどうでしょう?

 

詳しくは、こちらをご覧ください。

中高生以外の方の見学もOKです!

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平成25年6月16日(日)

 

こんばんは。

神坪浩喜です。 

 

アジサイが似合う季節になりましたね。
まだうちではアジサイは咲いていませんが、先日出張で行った東京では咲いていました。
毎月1度、日比谷公園の花の移り変わりを見ると、仙台より1か月ほど季節が早いのかな、と感じます。

あたかも東京の季節を仙台のそれが追いかけていくような・・・。
でも、秋は、仙台の方が紅葉が早く、季節をいつのまにか追い越していくのですね。

 

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誰かに何かを期待していて、それが期待外れだったとき、どうしても残念な気持ちになりますよね。
そして期待が大きすぎて、期待外れの度合いが大きいと、時に怒りの感情さえも浮かぶかも知れません。
「どうして○○してくれないの!」
「どうして○○もできないの!」等と・・・。

そんな黒い感情は、自分も辛くなりますし、相手も感じるところとなりますので、人間関係がギクシャクしがちになります。
相手は相手で「そんな勝手に期待しないでよ」「期待を押し付けないで」と思いますし、自信をなくし、期待した人を疎ましく思うかも知れません。

期待は少なからずしてしまうものですが、できるかぎり期待レベルは低く設定しておいた方が、人間関係を良好に保つうえでも効果的ですし、自分の心を平穏に保つ上でもいいことです。

なぜなら「期待>現実」だと不満を生み出しますが、「期待<現実」だと感謝の気持ちが生まれるからです。

期待しすぎると「不満」が生まれやすくなります。
現実が変わらなくても、期待レベルを低く変えることで、不満が感謝に変わることもありうるのです。

お互いに感謝ベースの気持ちでいることが、人との温かなつながりを保つ上でのポイントだと思いますが、期待レベルを低く設定しておくと「○○してくれない」という感情が減り、「○○してくれた」という感謝の気持ちが増えることでしょう。

期待するというのは、それは自分の心の中で決めた事柄です。
ですから期待レベルの設定は、自分でコントロールできることです。

 

家庭内では、親が子に、子が親に、妻が夫に、夫が妻に、職場では、上司が部下に、部下が上司に、経営者が従業員に、従業員が経営者に、それぞれが、何かを期待することでしょう。その期待自体が悪いというわけではありませんし、最低限の期待される役割もあるところです。
また、時にその役割にそって「○○をしてもらえないだろうか」と明確に期待していることを相手に伝えることも必要です。

ただ、その期待があまりに高すぎたりすると、期待どおりに相手が動いてくれないことが相対的に多くなって、自分も相手も辛くなります。

誰かに何かを与えるときも、自分の心の平穏のためには、見返りを期待しないことが大切です。
「自分はこれだけしてあげたのに・・・」といった見返りを求める気持ちが、自分自身を辛くさせます。

特に、誰かに何かをしてもらったら、お礼やお返しを必ずする方は、素晴らしい方なのですが、他者への期待レベルも自然と高くなりがちで、お礼やお返しができない方に対して、「どうして?」と責めてしまいがちです。そして、自分も辛くなる。

見返りのために何かをするのではなく、誰かのために何かをすること、何かを与えること、それ自体を喜びとして完結させると相手の反応に左右されることなく、幸せでいられますよね。

 

与えること自体が嬉しいのです。その人のために何か役に立つこと自体が幸せなのです。

もちろん、相手から、感謝の言葉やお礼等が返ってきてくれたら嬉しいことですが、それはラッキーなオマケぐらいに考えておくといいのです。

与えっぱなしでOKなのですよ。
恩返しは自分がしても、誰かに恩返しを期待しないのです。
なかなか難しいことですが、つい見返りを期待しがちですが、与えっぱなしでいきましょう。それは、相手だけではなく、自分の幸せのためにもです。

そして、与えっぱなしで幸せを感じられるようになった人は、結果的に多くの温かい人と温かなつながりを持てそうな気がしています。

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そうなれたら素敵なことですね。

私もまだまだですが、そうありたいと思っています。

 

それでは、また。

あなたの心が穏やかでありますように!

さて、この問題をどう解決しようか?

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 平成25年6月3日(月)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

民事調停官になってから早いもので2年8か月が過ぎました。

 

調停をやってきて、調停というものは、過去の出来事をふまえつつも、これからどうすればいいのかを考えることだなと感じています。  

当事者の方に、過去のことをふまえつつも、その縛りから解き放されて、これからのこと、将来のことに目を向けてもらえると解決への流れが一気に出てきます。

 

序盤は、相手に求めていること、その真意を確認し、紛争の問題点を整理して、主張を照らし合わせ、大事な事実、同じ事実、食い違っている事実、食い違っている事実についての裏付け書類等を確認していきます。

 

そして、問題の全体像が見えて、共有できたとき、このフレーズを意識して使っています。

 

「さて、これから私たちは、この問題をどのように解決しましょうか?」

 

それは、ニ当事者が敵対する関係から、一歩飛び出して、調停者も含めた三者で、相手ではなく「問題になっていること」に目を向けてもらい、あたかも、問題解決についてのチームとして、三者が協力者としてことにあたるかのような視点に立ってもらうためです。

 

相手を攻撃する思考から、二人の間に生じた問題を解決するという思考へ

過去に捉われる思考から、これからのこと、未来をどうするかという思考へ

自分発の主観的なものの見方から、客観的なものの見方へ

 

と転換をしてもらえたらと思っています。

 

それは、そうすることによって、解決の流れ、合意形成への勢いがでることを感じているからです。

 

実は、このフレーズ、自分の問題にも使えるかな~と思っています。

 

人生では、いろいろ問題にぶつかり、悩みは出てくるものですが、そんなとき、私は、問題について、紙に書いて可視化して、整理して、

「さて、この問題をどのように解決しようか?」

と問いかけてみます。

 

そうすると不安が落ち着き、過去から未来へ目が向き、具体的に何をすればいいのかが見えてくることもありますよ。

 

 

あなたもよろしかったら試してみてくださいね!

 

それでは、また。

 

あなたが幸せでありますように!

 

 

※関連のお話です。

 

民事調停について思うこと

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こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

5月も下旬となり、初夏の空気となりましたね。

 

先週末、弁護士仲間と茨城の男体山(654m)に登ってきました。鎖場もあってなかなかハードでしたが、冒険ムードたっぷりで楽しかったです。

 

がんばって登った山頂から眺めた新緑の景色は、とても素晴らしいものでした。

 

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人生は、ある意味、選択の連続といえますよね。

 

何を食べて、何をするのか

どんな仕事につくのか

どこで暮らすのか

誰と一緒に過ごすのか・・・。

 

日常の細かいところから、大きな決断まで、日々選択をしています。

 

でも、時に選択したことを後で後悔することもあるでしょう。

 

ああ、こんなはずじゃなかった。

この会社に就職するのではなかった。

こんな人と結婚するのじゃなかった・・・。

 

できれば、あの時に戻って選択しなおしたい・・・。

 

しかし、選択したことを後悔しても意味がありません。

タイムマシンで選択した過去に戻って違う道を選択することはできません。

道は前にしかないのです。

 

でも自分の前にある道をこれからどう進むのかは、自分に委ねられています。

 

こんな言葉に出会いました。

 

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選ぶ前の段階では、正解の可能性が高い道を選べるよう、最善を尽くすしかない。

 

選んだ直後からは、自分の選択を正解にしていくという決意を持つ。

どの道を選んだかで勝負が決するのではない。

本当の勝負は選択した直後から始まる。

 

人生は、あらかじめ正解が決まっている受験問題ではない。

正解は宿命的に決まっているものではない。

行動によって、自ら正解を構築していくのが人生である。

 

(「時間に支配されない人生」 ジョン・キム著 幻冬舎)

 

==========================

 

「選んだことを、正解にしていく」

 

選択したことを、これからの行動によって正解にしていく。

選択したことを正解にできる。

 

そう思うと、何だか勇気が出てきませんか。

 

この道を選んだこと

この仕事についたこと

この会社に就職したこと

この人と暮らすこと

 

選択したことを正解にしていく、正解にしていける。

私に、主導権が委ねられている。

 

選択したことを後悔しなくてもいい。

選択したことをこれから正解にしてしまえばいいのですね。

 

「あのとき、あの道を選んで、結果としてはよかったんだ」

「いろいろ辛いこともあったけれど、あの選択をしたから今の私があるのだ」

 

そう思えたなら素敵ですね。

 

 

それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

 

 

※関連のお話です。

 

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