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日記・コラム

キンモクセイの物語

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平成24年10月7日(日)

 

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

昨日の朝、マリと散歩をしていたら甘いキンモクセイ(金木犀)の香りがしました。

どこにあるのかなとあたりを見渡すと妻の着付けの先生のお宅にキンモクセイがきれいに咲いていました。

 

優しく甘い香りに秋を感じました。

そんなキンモクセイの香りに誘われてふと浮かんできた物語。

よろしければお付き合いください。

 

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「キンモクセイの物語」

  

僕は朝、街に出かけるために一番町へ向かう道を歩いた。

通りの角を曲がった瞬間、キンモクセイの香りがした。

 

「ああ、そんな季節になったのか」と香りの源へ足を運ぶ。

そこには、金色の花を咲かせたキンモクセイの花が昨晩の夜露に濡れて光っていた。

 

昨年初めて、この香りに気づいたときは、隣に君がいた。

一緒に歩いていて、「あっ、キンモクセイの香りがする。どこにあるのかな」と君が嬉しそうに言った。

「そうだね、どこだろう」と僕はあたりを見渡した。

 

そして二人、甘い香りに導かれて、通りの角にあるキンモクセイを見つけたのだった。

二人で香りの源をしばらく眺めた後、「今まで気が付かなかったけれど、こんなところにキンモクセイがあったんだね」と君は僕の方を振り向いて笑顔で言った。

 

その瞬間、君の優しいほのかな香水の香りとキンモクセイの香りが、まじりあってふんわりと僕を包んだ。

 

空は高く澄み切った青空が広がっていた。猛々しかった夏の暑さがずいぶんと懐かしく思えた。

西の空遠くに黒い雲がほんのかすかに見えるだけだった。

 

あの時は、こんな優しい日々がずっと続くものと信じて疑わなかった。

 

 

でも今、僕は一人、昨年と同じこのキンモクセイを眺めている。

 

あの日と同じように、キンモクセイは優しい秋の香りと金色の花を咲かせている。

キンモクセイの香りは、何も変わらない。

 

ただ、そばに君がいないだけだ。

それが違うだけだ。

 

通りの角を曲がれば、あの日と同じキンモクセイの優しい香りが僕を包んでくれていた。

 

(おしまい)

 

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変わらないと思っていても、永遠を信じても人の心は変化していきます。

 

相手の心も状況も、自分の心も状況も変化しうつろうものです。

結婚式で永遠の愛を誓いあったとしても、これで安泰だ、大丈夫だと思い、何もしなかったり、放置したり、相手を大切にしないと、相手の心もいつしか離れていくものです。

 

草木には水を注ぎ続けなければならないように、愛情も注ぎ続けなければ、枯れてしまうのです。

 

パートナーとの良好な関係を保つには、相手の価値観、大切にしているものを大切にすること、相手の行動や存在に感謝の気持ちを伝え、それにそう行動をし続けなければなりません。

 

もちろん離婚すること、別れることが、必ずしもいけないことという訳ではありません。

お互いに愛し合っていても、すれ違ってしまうこともあります。

別れること、関係を断ち切ることによって、お互いが幸せになることもあります。

 

ただ縁あって、お互いにパートナーとして選び合ったのですから、できることなら良好な関係を保ち、溝ができても浅いうちに修復して、温かなつながりを持ち続けたらいいですよね。

 

結婚する前は仲がよかったのに、結婚してから溝ができてしまう原因の一つに「分かってくれるだろう」と相手に期待しすぎて、自分の気持ちを伝えず、相手に「分かってくれない」と不満をもち、非難、攻撃してしまい、いつのまにか二人の間に取り返しのつかない溝ができてしまうことがあります。

 

ものごとは全てうつろうということ、人の心もうつろうものであること、だから、お互いに変化を前提として、良好な関係を保とうと愛を注ぎ続けなければならないということ・・・。

 

そのことを理解せずに、「何で分からないの」「あなたが間違っている」等と感情的な言葉をぶつけてしまうと、関係を冷やしてしまうのです。

 

だから結婚しても、相手の話に耳を傾けること、そして「言わなくても分かってよ」と過度に相手に期待するのではなく気持ちを伝えること、コミュニケーションをとり続けることが、温かな関係を保ち続ける上で大切なことかなと思います。

 

かくいう私も妻との関係で「えっ!こんなところに地雷があったのか!」と今なお驚きおののくことがあり、これからもきっとあるでしょう(泣)。

 

油断することなく、常に不断の努力をし続けなければならないということですね。

 

 

※関連のお話です。

 

恐怖の物語

諸行無常

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キンモクセイ(金木犀)の花言葉は「謙虚」「真実」。

 

「謙虚」な気持ちでいなければ、「真実」は見えないものなのかも知れません。

 

そんなのわかっている、私が間違えるはずがないと、傲慢な気持ちになってしまうと相手や他者の話に素直に耳を傾けることができず、事実を見誤る危険性があります。

 

とくに経験を積み、役職等がついて「偉くなった」方の場合、注意が必要かなと感じています。

 

どんなときもどこかで「今の判断は、あくまで現在の情報をもとに判断したものであって、間違っているかも知れない」

という留保をつけて、謙虚に相手の話を聴くことができてはじめて「真実」に近づくことができるような気がしています。

 

私も「間違っているかも知れない」と注意していきたいと思います。

 

それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

 

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平成24年9月29日(土)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

気がつけば9月もおしまい。

明日は中秋の名月ですね。

 

明日は、きれいな満月を見ることができるでしょうか。

そして、私は、月見団子を食べることができるでしょうか(笑)。

 

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さて、人は、人との温かなつながりを感じたとき、幸せを感じますよね。

逆に、本当は大切な人なのに、すれ違ってしまって、心が離れてしまったりすると悲しい気持ちになります。

 

中山和義さんの「すれ違ってしまった相手との心の修復法」という本を読んでみました。

「話し終わるまで、黙って聞く」「相手の話す事実を確認する」「期待の感情の大きさに注意する」等

すれ違ってしまった大切な人との関係をよくする具体的な方法が書かれていて、大変参考になります。

 

今回は、その中の一節「気持ちがきちんと伝わる話し方-誕生日を活用する」にあったエピソードをご紹介したいと思います。

 

 

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余命が残り少ないことが分かったお母さんが、ホスピスに入院しました。

彼女が入院した目的は、残していく二人の子どもへの毎年分の誕生日カードを書くことでした。

 

彼女は、小学校3年生と幼稚園に通う二人の息子さんの写真を見つめながら、毎日バースデーカードを少しずつ、書いていきました。

 

「中学生になったこの子には何を伝えてあげよう・・・。大学生になったら、彼女がいるのかな?」と二人の成長を想像しながら、一枚ずつ、丁寧にイラストを添えて、カードを書きました。

 

彼女は、時間を惜しむように、必死にカードを書いていましたが、病気のために体がすぐに疲れてしまって、思うようなスピードで書くことができませんでした。

 

看護師さんに、いつも「今日はここまでの予定だったけど、できなかったわ・・・」と悔しそうに、話していました。

 

その後も、カードを書き続けましたが、残念ながら下の息子さんのカードは15歳までの分しか書くことができませんでした。

最後まで、このことを気にしていた彼女は、「何で、僕のカードは15歳までしかないの?」と子どもに聞かれたら、「交互に書いていたんだけど、年の差の分、書けなかった。書いてあげられなくてごめんね」と伝えて欲しいと自分のお母さんにお願いをしていました。

 

 

彼女は、ご主人に誕生日カードを託して、家族に見守られながら亡くなりました。

 

 

 

誕生日に、メッセージを伝えられるのは当たり前ではありません。

彼女のように自分の気持ちを直接、伝えたくても、伝えられない人もいます。

 

大切な人との関係を深めるために、特別な日には、自分の気持ちを相手に伝えるメッセージを書いてあげてください。

 

(「すれ違ってしまった相手との心の修復法」 中山和義著 PHP研究所)

 

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大切な人に「お誕生日おめでとう」と伝えられることは、決して当たり前のことではないのですね。

「お誕生日おめでとう」は、大切な人がいて、自分がいて、そしてお互いにつながりがあって、はじめて伝えられる言葉なのです。

 

大切な人の誕生日には、相手が存在してくれることに感謝の気持ちを込めて「お誕生日おめでとう」と伝えられるといいのですよね。

 

「お誕生日おめでとう」は、「あなたが生まれてきてくれてよかった」「あなたと出会えてよかった」という存在を認める意味を持つものです。

人は、自分の存在を認められると嬉しいものです。

 

だから「お誕生日おめでとう」は、人と温かなつながりを築く素敵なメッセージになるのです。

 

 

お話の子のお母さんは亡くなってしまいましたが、毎年の誕生日に、お父さんから、お母さんが心を込めて書いてくれた「お誕生日おめでとう」の誕生日カードをもらうことができました。

 

そこには、お母さんの優しい、温かい「おめでとう」「あなたが大好きよ」の言葉が溢れていました。

 

 

お母さん、僕のことをこんなにも愛してくれていたんだね。

お母さん、これまでずっと僕のことを見守ってくれていたんだよね。

 

ありがとう、お母さん。

大好きなお母さん。

これからもずっと僕のことを見ていてね。

 

僕はお母さんの子どもでよかった・・・。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

 

※関連のお話です。

あなたがいてよかった。

トッカン2-辛い思いをしてきたからこそ

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平成24年9月23日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

前回「トッカン」(特別国税徴収官)のお話をしました。

行き過ぎた自己正当化に気をつけて-トッカン

 

テレビ「トッカン」では、主人公の鈴宮深樹(すずみやみき「ぐー子」)を井上真央さんが演じています。

ぐー子は、時に滞納者から罵倒され、生活に苦しんでいる滞納者から税金を徴収する自らの仕事の意味に迷いながら、不器用だけど、ひたむきに仕事にがんばります。

そんなぐー子のひたむきな様子が実に素敵です。ファンになってしまいました(笑)。

 

テレビは先週終わってしまいましたが、ぜひ続編をやって欲しいです。

 

※テレビ番組のHP

http://www.ntv.co.jp/tokkan/intro/index.html

 

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さて、「トッカン」テレビ第4話で、ぐー子が信じていた友だちに裏切られ、ミスを犯して、失意のもとに実家に帰る場面があります。

父親は、和菓子屋を営み、以前、税務署から冷たく差し押さえを受け、国税徴収官に対して激しい憎しみを持っていて、安定のために徴収官となった娘ぐー子との間に、わだかまりの感情が残っています。

 

実家にいるぐー子に鏡トッカンが電話をかけてきたとき、父親が受話器を奪い取り言いました。

 

父「こんな夜遅くに何のようや。税務署が!」

 

鏡トッカン「お父さんですか?」

 

父「そうや」

 

鏡「あーこの際だから、はっきり言わせてもらいますがね。あなたの娘さんには、迷惑してたんですよ。

徴収に行けば、税金の滞納者に同情して、判断を誤る。余計なことにクビつっこんで失敗ばかりする。

その挙げ句に退職願を出して仕事をほっぽり投げる」

 

父「・・・・・」

 

 

鏡「ただ、そんな鈴宮に救われた滞納者もおります。

辛い思いをしてきたからこそ、滞納者に手を差しのべることができるかも知れません。

 

あなたの娘だからこそ・・・。」

 

(トッカン-特別国税徴収官 第4話 日本テレビ)

 

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鏡トッカン、格好いいですね!

 

鏡トッカンは、日頃は、ぐー子のことをボロクソに言っているのですが、しっかりと温かな目でぐー子のがんばりを見ているのですね。

 

 

「辛い思いをしてきたからこそ、手を差しのべることができるかも知れません」

 

 

そうですね。そのとおりだと思います。

 

辛い思いをしてきたからこそ、同じ辛い思いをしている人の気持ちが分かります。

同じ辛い思いをしてきたからこそ、同じような辛い思いをしている人に手を差しのべることができるかも知れません。

 

ぐー子は、お金に苦労する自営業者の両親を見て、安定を求めて公務員になりたくて、国税官になりましたが、かつて父や母を苦しめた国税官の仕事をしていることを悩みながらやっています。

 

しかし、ぐー子は、トッカンといろいろな事件を経験していくことで、安定だけではない、自らの仕事の意味に気がついて行きます。

かつて父と母が税金を払えないで、辛い思いをしてきたことを踏まえて、トッカンとの経験を通じて自らの仕事の意義を見いだしていくのです。

 

そして、ひたむきなぐー子を、税務署の先輩、同僚、そして鏡トッカンがサポートしていきます。

 

 

もし、あなたが、今、辛い思いをしているならば、その辛い思いをした経験によって、将来同じような辛い思いをしている人に手を差しのべることができるかも知れません。

 

辛い思いをしたことによって、将来救われる人がいるのかも知れません。

 

辛い思いをしたことによって、共感力が高まり、温かく人とつながることができるかも知れません。

 

辛い思いをしたこと、それは強みになるのです。アドバンテージになるのです。力になるのです。

幸せになるきっかけに、生きがいを感じる生き方につながっていくのですよ。

 

そして、あなたが、辛い思いをしながらも、ひたむきに生きていくならば、それを見ていた誰かが助けてくれるかも知れません。

 

 

「辛」という漢字、「幸」とよく似ています。

「辛」にほんの横棒一本を足せば「幸」になります。

 

 

「辛いこと」は「幸せ」に変化することができる。

 

そう信じて、自分を見捨てないで、今の辛さを乗り越えていってくださいね。

 

 

 

※関連のお話です。

 

起きることには意味がある

 

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 9月19日の早朝のことです。マリと散歩に出かけはじめたとき、東の空は明るく、きれいな朝焼けでした。

 

ふと朝焼けと反対方向の空を見上げると、おおきな、おおきな虹が空高くかかっていました。

 

「あーきれいだなあ~」とぼんやり眺めていると、どうしてなんでしょう、ジーンと胸の奥が熱くなってきて涙がでくるのでした。

 

 

そして、虹は少しずつ薄くなり、消えていきました。

 

きれいなものは儚いなあ。でも心には刻まれていく…。

 

 

虹が消えると雨がポツリ、ポツリと降り出しました。

 

そして、私は、蚊に3か所も刺されていたことに気が付くのでした。…かゆいです(笑)。

 

 

以上、「虹と蚊」のお話でした!

「虹」と「蚊」という漢字もよく似ていますよね。

 

 

 

それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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Q:相続させる遺言をした遺言者より先に、名宛人である相続人が亡くなったとき、代襲相続は発生するのでしょうか?

 

例えば、祖父Aが遺言で、「父Bに甲の土地を相続させる」としていたところ、祖父が亡くなるより先に、父Bが亡くなった場合、その遺言によって、代襲相続人である私C(父Bの子、祖父Aの孫)が、土地甲を相続できるのでしょうか?

 

A:代襲相続は、原則として発生しません。

 

法定相続としては、被相続人の祖父が亡くなる前に、相続人の父が亡くなった場合、父の相続人の子(祖父から言えば孫)が、亡くなった父に代わって相続人になることができます。これを代襲相続と言います。

では、遺言書に書いたことも、代襲されるのでしょうか?

 

ところで、遺言に書く末尾の文言として、「○○を遺贈する」「○○を相続させる」というパターンがあります。

 

「遺贈」というのは、遺言で財産を他人に無償で与えることで、与える先は、相続人であることも 相続人でないこともあります。

他方で、「相続させる」は、相続人に対しての遺産分割方法の指定という意味合いとなり「相続させる」という文言が使えるのは、相続人に限られます。

相続人ではない人、例えば世話になった長男のお嫁さんに、財産をあげたい場合には、「相続させる」とは書けません。ですから「遺贈する」という言葉を使います。

 

財産を与える先が、相続人であれば「相続させる」遺言にしておきましょう。

 

それは「相続させる」が、「遺贈する」言葉の遺言より、有利だからです。例えば、「遺贈する」と遺言に書いた場合は、遺贈を受ける者は、所有権移転登記をするために他の相続人全員の印鑑、印鑑証明書が必要(ただし遺言執行者がいれば遺言執行者と共同でOK)になりますが、「相続させる」の場合には、相続されると名宛人となった相続人だけで、所有権移転登記申請をすることができます。相続開始時に、遺言に従って、所有権が指定された相続人に移転していることになっています。

 

財産を与える先が、相続人ならば、「○○を相続させる」と書いておけば無難です。

 

ところで、設問は「相続させる」遺言についてですが、遺贈の場合には、法律上、明確に、遺言は代襲されない、孫にはいかないと書かれています。

「遺贈は、遺言者の死亡以前に受遺者が死亡したときは、その効力を生じない」と規定があるのです(民法994条1項)。したがって、「○○を遺贈する」という遺言の場合には、その部分の遺言は無効であり、受遺者の子に受け継がれることはありません。

 

ところが「相続させる」の場合については、そもそも「相続させる遺言」について、条文がなく、最高裁平成3年4月19日判決で原則として遺産分割の方法が指定されたものとして、遺言の方法として明確に位置づけられたものです。

 

そして、相続させる遺言をした遺言者より先に、名宛人である相続人が亡くなったとき、代襲相続は発生するのか?といった問いについて、下級審では、肯定するものと否定するものとがありました。

しかし、最近(平成23年2月22日)の最高裁判決で、次のように述べて「原則として、代襲相続は発生しない」とされました。遺贈と同じですね。「遺言書に書かれた財産をあげる先は、宛名に書かれたその人限りというのが通常でしょう」という感覚で、孫にはいかないとされたのです。

 

「上記のような『相続させる』旨の遺言は、当該遺言により遺産を相続させるものとされた推定相続人が遺言者の死亡以前に死亡した場合には、当該『相続させる』旨の遺言に係る条項と遺言書の他の記載との関係、遺言書作成当時の事情及び遺言者の置かれていた状況などから、遺言者が、上記の場合には、当該推定相続人の代襲者その他の者に遺産を相続させる旨の意思を有していたとみるべき特段の事情のない限り、その効力を生ずることはないと解するのが相当である。」

 

祖父が代々引き継いできたお店を長男と一緒にやっていて、長男に店を譲りたいと考えて、長男に店に関する不動産をあげるとしていたような事情で、孫もお店を引き継ぐつもりで一緒にお店を手伝っているような場合、祖父の意思を他の相続人もしっているような場合には、「特段の事情あり」として、孫への相続が認められるのかも知れませんが、原則は、代襲されないのです。

 

遺言書の「長男に土地を相続させる」という遺言に効力が生じない場合には、その土地の帰属は、相続人間で協議して、決めることになるでしょう。

 

ですから、長男が亡くなったときは、すぐに遺言書を新しく作成しなおすか、あらかじめ、自分より先に長男が亡くなることにも備えて「○○の不動産は長男に相続させる。長男が自分より先に亡くなったときは、孫に相続させる」といった遺言書を書いておく必要があります。

 

長男宛に「お店の不動産を相続させる」と遺言書を書いてさえおけば、もう大丈夫と安心される方もおられるかも知れませんが、このような落とし穴があるので、遺言書の作成には、注意が必要です。 

行き過ぎた自己正当化に気をつけて-トッカン

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平成24年9月16日(日)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

私は、あまりテレビは見ませんし、小説も読まないのですが、最近「トッカン」(TV、小説)にはまってしまいました。

  

主人公鈴宮深樹(すずみやみき あだ名は「ぐー子」)は、東京国税局管内の税務署に配属され新米徴収官として働き始めます。上司の鏡雅愛(かがみまさちか)は、悪質な税金滞納者から隠し財産を差し押さえまくり“死に神”と言われている特別国税徴収官(略してトッカン)。そんなトッカン・鏡の下で、ぐー子が滞納者の取り立てに奔走し、悩みながら成長していくというお話です。

 

滞納者のキャラクターも事情もいろいろあって考えさせられます。 法律や弁護士の話も出てきて面白いですよ。よろしければご覧になってみてください。

 

※テレビ番組のHP

http://www.ntv.co.jp/tokkan/intro/index.html

 

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 小説「トッカン」で、敵役の弁護士吹雪敦が、ぐー子にこういいます。

 

「人は生きるために体裁を作るし、それは知らないうちに垢のように身をつつんでいく。外聞や体裁が、人の身を守ることだってあるでしょう。

 だけど、垢がたまって皮膚に沈着するように、体裁も知らないうちにその人の薄汚れた皮膚そのものになってしまう。そうするとね、どんどんと素顔とは別の物になって、誰もその人の素顔を知らなくなる。だって、他人から見える自分は体裁なんだからね。素顔なんて知るはずがない。 

体裁を作りすぎた人間の行く先は二つだ。

自分自身すら素顔を忘れてしまうか、それとも素顔との距離感に苦しんで狂うか」

 

どきん、とした。たしかに吹雪の言うとおりだと思った。自分にも覚えがある。作りすぎた体裁、体裁のためについた嘘は、最初はささいなものでも次第に雪だるま式にふくれあがっていって、けっして消滅することがないのだ。

 

・・・・

 

体裁。自分が無意識のうちに作り出してしまったもの。それは、皮膚の上にたまる垢のように、いつしか、美しかった人の表層を包み込んで、別人にしてしまうおそろしいものだ。」

  

「トッカンvs勤労商工会」 高殿円著 早川書房

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私も、「どきん」としました。

 

良心に反することをしてしまったとき、できるのにやれなかったとき、体裁をつくろうことがありました。

自分は悪くない、間違っていない。それを確かめたくて、納得させたくて自分を正当化する理由を見つけ出そうとしました。

 

でも内心はわかっていたのですよね。自分の良心に背いているということを・・・。

 

「体裁をつくること」「自己正当化」は、どなたの心にもあるでしょうし、自分の心の平穏を守るためにある程度は必要なことです。

しかし、それがいき過ぎると、自分を見失い、他者への怒りや不満が多い、攻撃的な人生となっていまいます。

 

「私は間違ったことはしていない。相手がわるいのだ。みんなあいつが悪いのだ。」

 

自分の罪悪感を薄めるために、ごまかすために、相手に対するネガティブな感情を増幅させていきます。

 本当は、その人が困っているとき、良心にしたがって声をかけることも手助けすることもできたのに、気持ちにそむいて手助けしないことを選択した。

相手に謝罪した方がいいと心の底では感じていたのに、謝ることができなかった。

そこまで、強く言う必要がなかったのに、ちょっと言い過ぎてしまった。

 

その居心地の悪さをごまかすために、自分は悪くないのだと納得させたいために、相手が悪いんだ、相手が自分にしたことはとても酷いことなんだ、だから自分が相手にしたことも当然なのだと言いきかせたりします。

  

例えば、誰かが、いじめられているとします。

それを傍観してしまう人、いっしょになっていじめる側にまわってしまう人の心はどのような心境でしょうか。

 

その時、どこか心の落ち着きの悪さを考えながらも、このような自己正当化の声が聞こえてきそうです。

 

「あいつがいじめられるのも仕方がない。だって、あいつは空気をよまないからだ。生意気だし。あいつをいじめなければ自分がいじめられる。だから、自分を守るために、いじめる側につくことは仕方がないことだ。それに、これはいじめなんかじゃない。あいつの誤った根性を叩き直すためにやっているのだ。いじめられるあいつにも原因がある。みんないじめている。自分がしていることよりもっと酷いことをしている人もいる。

自分が悪いわけじゃない。・・・・自分は悪くないんだ!」

 

このような感じで、自己正当化をしていくのかも知れませんね。

 

自分を背いた行為について、背いた行為を「自分は悪くない!」と正当化するために、相手のことを必要以上に悪く考えたり、さげすんだりするのは、実に悲しいことです。

 

それは、相手を傷つけるだけでなく、自分をも深く傷つけることになるでしょう。暗い影を落としていくことでしょう。何とも落ち着きの悪いものが心の奥底に澱のようにたまっていくことでしょう。

本当は、温かくつながることができた相手だったのかも知れないのに、そう思ってしまうと、温かなつながりが築けるはずもありません。

 

正しいことだという自分の気持ちに素直に従うことは、時にとても難しいことです。

悪いことをしたと思うときに素直に「ごめんなさい」と言うことは、難しいことです。

困っている人を見て、手を差しのべることは、勇気がいることです。

 

欲、エゴ、見栄、面倒くささ、劣等感、恐れ、嫉妬心、体裁・・・

  

様々なものが、良心にそった行動にブレーキをかけてきます。やるべきことをやらないように、やってはいけないことをやってしまうように、引力を働かせてきます。

 

そんな引力に抗うことは、なかなか難しい、本当に難しいことですが、勇気をもって、そんな引力に負けずに、自分の良心に従った行動をとることができたらいいですよね。

 

体裁をつくること、自己正当化を図りすぎないように注意して、自分の良心に背かないように、自分の良心に忠実に行動するようにしたいなと改めて思いました。

 

 ※関連のお話です。

 

正見(しょうけん)-正しいものの見方

 

 

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9月も中旬ですが、まだまだ暑い日が続きますね。

バテないように、美味しくて、栄養のあるものをたくさん食べて、どうかお身体、ご自愛ください。

 

 

・・・・私はそう自分に言いきかせて、自己正当化してしまい、食べて、太ってしまいました!

 

 

自己正当化には気をつけましょう(笑)。

 

それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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○離婚の際には、離婚届だけでなく、後のトラブル防止のために、離婚協議書を作成されることをお勧めいたします。

 

離婚届は、紙1枚です。
お互いの離婚についての合意があれば、届出用紙に署名、押印し、証人2名の署名押印をそろえて、子の親権者について記入し、役所の窓口に提出すれば、それで離婚成立です。

 

このように夫婦双方に離婚の合意がある場合、合意がない場合と違って離婚届1枚で、あっさり離婚は成立しますが、財産分与のこと、慰謝料のこと、子の養育費、面会交流について別途「離婚協議書」という形で明確に決めておいた方がよいでしょう。

離婚後に、相手に対して、何かをしてもらいたいような場合、たんに口約束だけでは、後々、約束を守ってもらえず、もめる可能性が高くなります。
そして約束が守ってもらえないときに備えて、離婚協議書を強制執行認諾文言付き公正証書にしておくと安心です。離婚協議書を強制執行認諾文言付公正証書にしておきますと、相手が約束を守ってくれない場合、相手の財産に対して強制執行することができます。

 

あやめ法律事務所では、夫婦間で合意が成立している場合の離婚協議書についての相談や作成も承っております。
お気軽にご相談ください(022-779-5431)。

 

以下は、離婚協議書のひな形です。参考にされてください。

 

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                    離 婚 協 議 書
                    
                                            甲(夫)  鈴木 一郎
                                            乙(妻)  鈴木 花子

第1条(協議離婚)
甲と乙は、協議により離婚することとしし、以下の内容で合意した。

第2条(親権者)
甲乙間の未成年の長男鈴木太郎(平成20年4月1日生、以下丙とする)の親権者を母である乙と定め、乙において養育する。

第3条(養育費)
甲は乙に対し丙の養育費として、平成*年*月から丙が満20歳に達する費の属する月まで、毎月末日限り金○○万円を、「○○銀行○○支店 普通○○号名義○○」に振り込んで支払う。振込手数料は甲の負担とする。

第4条(面接交渉) 
乙は、甲が子と月に○回面接することを認め、その日時・場所・方法については、子の福祉に配慮し、甲乙双方協議の上、決める。 面接する際には、事前に甲は乙に連絡するものとする。

第5条(慰謝料)
甲は乙に対し、本件離婚に伴う慰謝料として金○○万円の支払義務があることを認め、これを平成○○年○月○日限り、「○○銀行○○支店 普通○○号○○名義○○」の口座に振込にて支払う。振込手数料は甲の負担とする。

第6条(財産分与)
1,甲は、乙に対し、本件離婚に伴う財産分与として、別紙物件目録記載の不動産を分与する。
2 乙は、甲に対し、前項記載の不動産について、本日財産分与を原因とする所有権移転登記手続をする。登記手続費用は甲の負担とする。

第7条(年金分割)
当事者間の別紙記載の情報にかかる年金分割についての請求すべき按分割合を0.5と定める。

第8条(合意管轄)
本件離婚から発生する一切の紛争の第一審の管轄裁判所を乙の住所地を管轄する地方裁判所とする。

第9条(通知)
甲及び乙は、住所、居所、連絡先を変更したときは、遅滞なく書面により相手方にこれを通知するものとする。

第10条(清算条項)
甲と乙は、本件離婚に関し、本条項に定めるほか、何らの債権債務がないことを相互に確認する。

※公正証書の場合(強制執行認諾文言)
甲は、本証書記載の金銭債務を履行しないときは、直ちに強制執行に服する旨陳述した。

上記のとおり合意したので、本書二通作成し、甲乙各自署名押印の上、各自一通ずつ保有する。

 

平成    年    月    日

 

                甲      住所

                         氏名                                                            印

 

                乙      住所

                         氏名                                                            印

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 ○離婚と戸籍・氏

 離婚によって、戸籍や氏はどのようになるのでしょうか?

 

旧姓「山田花子」さんが「鈴木一郎」さんと結婚して「鈴木花子」さんとなり、「鈴木一郎」さん筆頭の戸籍が作られ、その後離婚したケースで考えてみます。

 

離婚届が受理されることによって

花子さんが、婚姻前の氏「山田」にもどりたい場合、離婚届用紙の所定の欄にその旨記載するだけでOKです。

この場合、戸籍について、婚姻前の旧戸籍にもどる(復籍する)か、花子さん筆頭の新戸籍をつくるかを選択します。

 

花子さんが婚姻の際に称していた「鈴木」姓を続けたい場合には、離婚届とは別用紙の「離婚の際に称していた氏を称する届」を提出します。これは、離婚成立の日から3か月以内にしなければなりません。もし、離婚から3か月後の場合に、やはり「鈴木」姓にしたい場合には家庭裁判所に「氏変更許可の審判」の申し立てをすることになります。

婚姻の際に称していた「鈴木」姓を続けたい場合、戸籍は、必ず新戸籍となります(復籍はできません)。

 

●離婚と子の戸籍・氏

夫婦が離婚した場合、子どもの戸籍や氏についてはどのようになるのでしょうか?

離婚によって親権者がどちらになろうと子どもの戸籍はそのままです。氏もそのままの「鈴木」姓のままです。

 

花子さんが、子どもを自分と同じ氏(「山田」or「鈴木」)にして自分の戸籍に入れたい場合には、

・花子さんが親権者となっている場合

→家庭裁判所に「子の氏の変更許可の審判申立」(必要書類-自分の戸籍謄本、配偶者の戸籍謄本)をします。簡単な手続きで可能です。変更許可を受けた後、その審判書謄本を市町村役所に持参して、入籍の届出をします。

・花子さんが親権者となっていない場合

→子が15歳以上の場合には、子自身に「氏の変更許可の審判申立」をしてもらえばいいのですが、子が15歳未満の場合には、親権者である元夫に申立をしてもらうか親権者変更をしてもらって氏変更許可審判申立をするしかありません。

 

※子の氏の変更許可審判は、山田さんが離婚によって旧姓にもどらず、「鈴木」という婚姻中の氏を用いる場合にも自分の戸籍に子を入れたいときは必要になります。

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平成24年8月25日(土) 

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

8月も下旬なのですが、まだまだ暑い日がつづいていますね。

 でもマリの散歩道で、秋明菊や秋桜が咲いているのを見かけたり、虫の声を聴くと、もう秋なんだなあと感じます。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

さて、タイトルにひかれて「ゆるす力」(植西聡著 幻冬舎新書)という本を読んでみました。

 

多かれ少なかれ、どなたにも「あの人だけは許せない!」といった感情がわき上がってきたことがあるかと思います。

 

誰かを「許せない!」と感じているとき、怒りや恨みに心を覆われてしまっているとき、心は穏やかではありませんよね。

 

できれば、そのような感情を手放して、心穏やかに過ごせたならば、人生は、ずっと楽しく幸せになれそうです。

 

でも「あの人だけは許せない!」「この裏切り者!」「恩知らず!」「仕返しをしてやる!」といったネガティブな感情は、ふつふつと湧いて出て、自分自身をイライラさせます。幸せな気持ちとは到底相容れないものです。

 

とはいえ、そうは分かってはいても、「許せない」という気持ちは、なかなか消したり、手放したりできるものではありませんよね。

 

「悪いのはヤツの方だ、あんな酷いヤツを許してなんかあげられるか!」と。

許すということが、どこか負けを認めるような気にもなって、意地になったりします。

 

この本は、許せない相手のために許すのではなく、自分が幸せになるために、許してみたらどうですかと言っています。

自分の心の平穏のために「ゆるす」技術を身につけてみてはどうでしょうと提案しています。

 

その中の一つをご紹介したいと思います。

 

 

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自分の心に嫉妬や怒りといったネガティブな感情がわき上がってきたら、その気持ちを客観的に表現してみることをおすすめします。

 

例えば、誰かに嫉妬したときは、「あの人はずるい!」と言うのではなく、「私は今、あの人のことをずるいと思っている。あの人に嫉妬しているんだなあ」と言ってみます。

 

例えば、誰かにイライラしたときは、「イライラしてはいけない」と思ったり、「ああ、イライラする!」と口に出して言ったりする代わりに、「私は今、この人にすごくイライラしているなあ」と言ってみます。

 

コツは、どんな感情でも「私は」と、主語をつけて言葉にすることです。

 

そんな単純なことで・・・と思うかも知れませんが、これだけで、自分の気持ちにのみ込まれることなく、冷静な気持ちを取り戻せるようになるでしょう。

 

思わず自分の感情にのみ込まれそうになったときは、一歩引いて自分の状態を客観的に表現することにより、冷静さを取り戻せるのです。

 

「ゆるす力」自分の気持ちを客観的に表現してみる

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ちょっと練習問題をやってみましょう。

 

例題「私を騙したあの人を許せない」→「私は今、あの人を許せないと思っているんだなあ」

 

「私を馬鹿にした部下に腹が立つ」→「私は今、・・・・」

 

「私にダメだしばかりする上司が許せない!」→「私は今、・・・・」

 

「酷い暴言を吐いたあの人が憎たらしい!」→「私は今、・・・・」

 

「恋人を奪ったあの人を許せない!」→「私は今、・・・・・」

 

 

もし、あなたに何か許せない気持ちがわき上がってきたならば、試しに「私は今○○と感じているのだなあ」と口に出してみてくださいね。紙に書き出してみるともっといいかも知れません。

 

植西さんがおっしゃるとおり、一歩引いて自分を眺めること、客観的にみることは、感情にのみこまれて、怒りの感情で、心を一杯にすることを防ぐ効果があると思います。

 

感情の発生は、「事実」→「自分なりの事実の受け止め方」→「自分の感情」といった流れからくるものですが、その事実を作った相手を許せないと思うことより、「自分の幸せのため」には、自分の感情を冷静に穏やかにコントロールすることによって、心の平穏を取り戻すことの方がいいのです。

 

その技術として、自分の感情を「私は今○○と怒っているんだなあ」と客観的に表現することによって、怒りの感情にのみこまれ、怒りの感情に囚われてしまうことを防ぐことができるでしょう。

 

嫌な出来事から、瞬間的に嫌な感情がわき上がって来てしまうものですが、「私は今・・・」と表現をする練習をすることによって、感情のコントロールが出来るようになり、心の平穏を保ちやすくなりそうです。

 

ちょっと試されてみてはいかがでしょう。

私も試してみたいと思います。

 

 

※関連のお話です。

 

感情さん、今怒っているんだね。

 

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 自分の幸せのためには「ゆるすこと」が望ましいと思っていますが、どうしても許せない相手がいたりしますよね。

 

そんなとき、許せない気持ちを無理に否定しなくてもいいと思います。

許せない自分を責める必要もありません。

それはそれで仕方がないことです。

それは、よほど酷いことをされたのでしょうから・・・。

 

「私は今、あいつを許せないんだなあ」と許せないことも受け入れてあげてください。

 

一定の時の流れを経ることが必要なものもあります。

できるかぎり、幸せな感情、温かで穏やかな気持ちになることで心を満たす生活を送って、しばらくの時が過ぎさることによって、ようやく癒されていく心の傷もあると思います。

 

今、大切なこの時を、できるかぎりネガティブな感情に支配されないように、意識的にコントロールされてみてくださいね。

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・・・と私自身にも言いきかせています(笑)。

 

 

それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

民事調停と震災ADR

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平成24年8月19日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

気がつけば、ロンドンオリンピックも、お盆も終わりましたね。

ジュニアロースクールや高校生模擬裁判選手権といった法教育の行事も随分と昔のことのようです。

 

まだまだ残暑が厳しいのですが、雲の形や朝晩の虫の声が確実に季節が秋に移ってきていることを感じさせます。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

さて、民事調停について、以前お話したことがありますが、仙台弁護士会では「中立的な第三者が入って話し合いによる紛争解決をめざす」調停のようなことをやっています。

 

それは紛争解決支援センター(ADR)といい、弁護士が仲裁人となって間に入って話し合いを行うものです。

 

そのADRに、東日本大震災直後、仙台弁護士会において震災問題対応専門の「震災ADR」が設立され、これまで多くの申込みがあり、これまで多数の案件を解決に導いてきました。

 

 

他方で、民事調停については、震災関連案件の事案が多数寄せられると想定したところ、あまり利用はされませんでした。

 

ADR委員会で活躍している友人のA先生から、どうして調停はあまり利用されず震災ADRが多く利用されたのか、6月の震災ADRのシンポにおいて、民事調停官の立場で3分程度発言をして欲しいという依頼がありました。

 

何だか「敗戦の弁」を語るようでちょっと悔しい気もしたのですが(笑)、A先生の依頼でしたし、調停とADRの違いをお伝えして、調停のPRになるかもと思い、引き受けることにしました。

 

当日は、たくさんの参加者がおられました。

 

 

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平成22年10月から仙台簡易裁判所で民事調停官として週1回勤務しております神坪浩喜と申します。

 

「民事調停がそれほど件数が伸びなかった反面、震災ADRの件数が伸びた要因について、あくまで推測のレベルになりますが、お話しようと思います。

 

調停もADRのいずれも「中立的な第三者が入った上での対話、話し合いによる紛争解決」という手段であり、柔軟な解決ができるものです。

 

そして、震災案件でよくみられる、賃貸借関係や相隣関係の問題は、オールオアナッシングの解決ではなくファジーな解決が望ましい場面であり、話し合いによる解決向き、ADRや調停向きだと思います。

 

そして、その中でADRの方が多く選択されました。

 

調停もADRも本質は同じなので、震災に関する調停も増えるのかなと思いましたが、思うほど事件が来ているわけではありません。

 

その理由は、相談担当の弁護士がADRをお勧めし、調停をお勧めしなかったからだと思います。

 

では、なぜ、相談担当の弁護士はADRをすすめたのでしょうか。調停をすすめなかったのでしょうか。

 

 

第1に「震災相談から震災ADR」という流れが、しっかりとしていたからだと思います。

 

すなわちADRについては、電話相談を含めた相談担当弁護士からの勧めがひんぱんにあったと思われます。震災後の相談受付体制の確立も早かったし、震災ADRの確立も実に早く行われました。そして、多数の相談からADRをすすめるという流れが、確立されていたのです。

 

他方で、裁判所の調停のPRはこれといって行われていません。震災相談窓口というのも設けられましたが、開設は遅かったですし、すいているようです。

 

そして、訴訟ではない「話し合いによる柔軟な解決」を志向したとき、ADRという選択肢がある以上、おそらく調停という選択肢をお勧めする相談担当弁護士はほとんどおられなかっただろうと思います。

 

弁護士が相談を受け、話し合いによる解決が望ましいと判断した場合には、「簡単にファックスで、無料で申し立てができます。間に仲裁人の弁護士が入って・・・」とADRを勧められたことだと思います。その上で、わざわざ調停の説明をすることはなかったことでしょう。

 

こうして、弁護士が相談を受けて、話し合いによる解決がいいとくれば「ADR」が出てきていたわけです。

 

 

また第2に、調停よりはADRの信頼できる、使い勝手がいいと考える弁護士も多いのだろうと思います。

 

調停だと、長くかかってしまう、待たされる、冗長に進行するという印象を持たれておられる先生もおられることでしょう。調停委員には、弁護士が入っていることもありますが、一般の調停委員の先生ですと傾聴を大切にして「交互にじっくり話をきいて」というスタイルの調停が多く、時間がかかってしまう場合も少なくありません。そのようなイメージから、確実に間に弁護士が仲裁人に入ってくれるADRへの信頼性が、調停より高くなっているのかと推測します。

 

ADRでは弁護士が確実に仲裁人になるので、争点整理や進行のしきりも調停よりADRの方が信頼できると思われる先生方も多いのではないでしょうか。

 

このような理由から、調停ではなく震災ADRが利用されてきたのだと思います。

 

 

しかしながら、調停には調停のよさがもちろんあります。

訴訟と比べてもそうですが、ADRと比べても調停の方がいいところもあるかと思います。

 

合議体であることは、解決に向けての知識や知恵を補いあいながら、すすめていくことができます。役割分担をすることもできます。調停調書は債務名義となることは、紛争の解決を担保するとともに、安心感につながります。

弁護士でない調停委員の方は比較的年齢層が高く、社会経験豊富な方が多く、穏やかな方である安定感があり感情的な対立があるような場合や当事者がじっくり話をきいて欲しいと考えている場合にはADRよりすぐれているような気もいたします。

 

 また裁判所からの呼出ということもあり、相手方の出席率はおそらくADRより高いでしょう。

もちろん弁護士会も信頼されていると思いますが、裁判所という公的機関への信頼は、やはり大きいなものがあると思います。

 

当事者の経済的負担の観点からみると震災ADRは、申立手数料は無料であるものの、合意が成立した場合の手数料はかかるのに対し、震災調停は申し立てのみならず成立した場合でも手数料はかからないメリットがあります。

 

 震災案件については、ADRのかげに完全に隠れてしまった調停ではありますが、このように調停には調停のよさもございますので、ADRとともに調停もまた積極的に利用していただければと思います。

 

 

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民事調停もADRも紛争解決の手段として、これからますます重要になってくると思っています。

その発展と普及にお役に立ちたいなと考えています。

 

 

※関連のお話です。

 

民事調停について思うこと

 

 

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 今月のNHK教育テレビの「100分de名著」は、フランクルの「夜と霧」をやっています。

 

とてもいいと思いますので、よろしければご覧になってみてくださいね。テキストもお勧めです。

 

「どんな人生にも意味がある」

「人間は人生から問いかけられている」

「人生があなたを見捨てることは決してない」

 

フランクルが述べるように、このように考え、人生からの問いかけに精一杯応えようとすることで、何かが変わる気がしています。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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平成24年7月16日(月)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

うちの花壇にギボウシ(擬宝珠)が咲いています。

仏教の宝の玉「宝珠(ほうじゅ)」を模して、橋の欄干などにつけられている飾りを「擬宝珠」というのですが、それにつぼみが似ていることからこの名前になったそうです。

 

ギボウシの花言葉は「静かな人」「沈静」。

 

頭は冷静沈着に、そして心は温かくありたいものですね。

 

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さて、PHP8月号で、萩本欽一さんのインタビュー記事を読んでいたら、素敵な言葉に出会いました。

 

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ここ十数年、日本人の自殺はとても多いでしょ。ほんとうに痛ましいことだよね。

実は僕も、自殺をしようとしたことがあるんです。今から四十年ほど前、三十歳か三十一歳のとき。

週刊誌にボコボコに叩かれたことがあってね。

「萩本欽一は血も涙もない男」だとか「どこそこの記者を殴った」とか。

もちろん殴ってなんかいないのに、ひどいよね。

 

さすがに落ち込んで、熱海にある自殺の名所にタクシーで向かったんです。崖から飛び降りて死のうかなと思ったら、当時ディレクターの常田さんや母親の顔が浮かんできた。あっ、常田さん、泣いちゃうよ。母ちゃん、泣いちゃうよ。そう思ったら死ねなくなった。だから、二分で解決(笑)。死なないことにした。

・・・・

伝記やイソップ物語にもずいぶん助けられました。偉くなった人や名を残した人って、子どものころや若いころに貧乏したりひどい目に遭っている人が多いでしょ。つらいことがあっても、伝記を読んでたから、これは今、運が育っていて、将来は運が開くんだと思えた。

 

・・・・

 

人生、つらいことや大変なこともあるけれど、見方や視点を変えることで、運を呼び込めることもある。ぼくが貧乏しているとき、今は運がたまっているときなんだと思ったようにね。

  

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「辛いときほど運がたまる。 辛いことがあっても、これは今、運が育っていて、将来は運が開く。 このように見方や視点を変えることで、運を呼び込めることもある。」

 

そう、萩本さんはおっしゃっています。

 

・・・なるほど、辛いときは、打ちひしがれて、運や環境、自分を傷つけてくる誰かを恨みたくなりますが、そんな見方もあるのですね。

 

 

詩人の相田みつをさんは、「かなしみや苦しみを耐え忍んで、いのちの根は、深くなっていく」とおっしゃっています。

辛いことを経験して、心は、深く、透き通って強くなっていく。

 

そして、辛いことを体験したからこそ、同じように辛い思いをしている人の心の痛みが分かります。

共感力が高まり、思いやりのある優しい心に深化していきます。

 

 人と心の深いところでつながることができるのは、辛さや悲しみに共感できたときです。

「あの人は、自分の辛さや悲しみを分かってくれた!」そう思えたとき、心の底から嬉しいものです。

 

 私は、人との温かいつながりが、幸せの源泉だと思うのですが、そうだとするならば、辛い体験をした人ほど、悲しみにくれる経験をした人ほど幸せになれるのですね。

 

なぜなら、辛さや悲しみを体験している人ほど、同じ辛さや悲しみを味わっている人に共感できるからです。そして心の深いところで、人と温かくつながることができるのです。

 

今、あなたは、まさに辛いこと、大変なことの渦中に、おられるかも知れません。

 

それはとてもお辛いことでしょう。それは、ひとりぼっちで、闇の底にいるような感じかも知れません。こんな辛いときが、このままずっと続くような気もしておられるかも知れません。

 

でも、少しだけ、ほんの少しだけでも、見方や視点を変えられないか、試されてみてはいかがでしょうか。

 

 「辛いときほど運がたまっている」

 「辛いとき、それは運が育っているとき。その分、将来は運が開く」

 「辛いことがあって、いのちの根っこが、深くなっていく」

 「辛いことを経験したからこそ、人と深いところで、温かくつながることができる、幸せになれる」

  

そのように、辛いことを受けとめてみてはいかがでしょうか。

 

あなたが、その辛さを受けとめ、乗り越えたとき、あなたは、今よりもっと優しくて素晴らしい人になれるのだと思います。

 

ここで、運や人を責めることばかりに、心のエネルギーを使ってしまうことは、ちょっともったいないことかも知れません。

  

そして、大切なことは、辛さを乗り越えるとき、受けとめるときに、人の助けを借りてもいいことをどうか忘れないでいてくださいね。

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それでは、また。

あなたが、幸せでありますように!

 

※関連のお話です。

 

ずっと運が悪い人はいませんよ-2

 

温かなつながり-幸せの源泉

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平成24年7月8日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

今日は梅雨の中休み。

久しぶりに太陽が顔をのぞかせました。

 

小犬のマリも、お散歩、とても楽しそうでしたよ。

 

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日本国憲法は、その核心として一人ひとりを個人として大切にするという「個人の尊厳」を保障していますが、

そんな個人の尊厳を心にズシンと響かせるこんな素敵な詩があります。

 

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「自分の感受性くらい」

 

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

茨木のり子

 

(詩集『自分の感受性くらい』から)

 

 

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「ばかものよ!」と喝をいれられたようで、どきっとしますよね。

今、辛い気持ちにおられる方にはちょっと刺激が強い詩かも知れません。

 

 

「人のせいばかりにしてしまって、私ってばかもの・・・」

そんな風に自分を責めないでくださいね。

 

 

一見、きついのですが、個人の尊厳と可能性を信じたとても優しい詩だと私は思いました。

 

 

「自分の感受性は、自分で守ることができる」

 

 

その素晴らしい事実に、この詩は、気づかせてくれます。

 

人は、自分で、自分の心を守ることができる。

どんな辛い時でも、自分の心の平穏を保ち、尊厳ある生き方をすることができる。

 

乾いていく心に自分で水をやることができるし、しなやかな心を保つこともできる。

確固たる志を抱くことも、苛立つことを放棄することもできる。

 

どんな出来事が起きても、自分の心だけは自由でいられる。

 

・・・そんな風に、励ましてくれているようです。

 

 

自分に辛くあたる誰かを恨むことも、憎むこともできますが、何とも思わないことや、許すこと、受け入れることも選択できるのです。

 

 

誰かのために自分は不幸にさせられているとそう思う心から、自分を守ることができる。

自分はダメな人間だと自分を責める心から、自分を守ることができる、

どうか、そのことを気がついてほしい・・・

 

茨木さんは、そう訴えかけているように思えました。

 

生きていく中で、出会う人の中には、あなたのことを悪くいったり、意地悪をしてくる人がいることでしょう。

あなたががんばってしていることを馬鹿にしたり、評価しない人もいるかも知れません。

 

「どうしてそんな酷いことをするのか!」

 

そんなとき、心いっぱいに、怒り、憎しみという黒い感情が湧き上がります。

「許せない!」と何度も心の中で繰り返したりします。

 

 

でも、そんな気持ち、感情を選択しているのは、あくまで私自身。私がその気持ちを選んでいるとしたら・・・。

そのような「怒り」「恨み」の感情は、あなた自身を傷つけます。

とても難しいことですが、そんな感情が湧き上がるにしても、うまく流してあげて、できる限り温かい感情で心を満たせるといいですよね。

 

そのためには、まずは、自分で自分の心を守ることができることを知ること

自分に、人生の主導権があるということを知ること。

痛いことですが、人や環境のせいばかりにしないこと。

 

それが幸せに生きるためのポイントの一つなのかなと思います。

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自分の大切な感受性、自分でしっかり守ってあげてくださいね。

 

※関連のお話です。

 

人生の主役は誰ですか?

 

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昨日、東大で開かれた仲裁ADR法学会に、初めて参加しました。

「民事調停の機能強化について」や「法科大学院におけるADR教育実践」といった興味深い内容で、

私がやっている民事調停官の調停実務や法教育に参考にしたいと思う情報がいくつもありました。

 

私は、法教育授業としては、調停・ADR体験を子ども達にしてもらうのが、

これからは有用なのではと思っています。

 

私自身が、訴訟事件をやり、そして現在多くの調停事件を中立的立場で扱う中で、

攻撃的で相手の弱点をつつく訴訟体験よりも、対話を通じて、調和を図ろうとする

調停・ADR体験の方が、自分及び他者といった個人を尊重する態度を身につけ

多面的なものの見方を身につけてもらうのには効果的だと感じています。

 

民事調停と法教育を有機的につなげていくと何だか面白いことになりそうです。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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平成24年6月30日(土)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

梅雨の花、あじさいが色づき、きれいに咲いています。あじさいの花は、色が変化して目を楽しませてくれますよね。

だからなのか花言葉は一般に「移り気」とされています。

 

でも「ひたむきな愛情」というのもあるのですよ。

 「あなたがどのように変わっていっても私は愛し続ける」ということなのでしょうか。素敵ですね。

 

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辛いこと、思い通りにならないことが続くようなとき、私たちは「いったいこの人生は、私にとって何の意味があるのか?」「私は何のために生まれてきたのか?」という問いかけをしがちです。

 

そして、その後に続くのは「人生なんて、なんの意味もないのかも」「私が生まれてきた意味なんてないのかも」という言葉が浮かんできて、心の中は黒い雲で覆われ、気分は沈んでいきます。

 

何の意味もないのではないか。自分なんて存在する意味がないのではないか。人生なんて辛いだけじゃないか・・・。

 

 

そのとき、とても辛いですよね。

 

 

この思いに心がいっぱいになってしまうと、生きる気力が萎えていき、行きつくところ、自分で自分の人生を終わらせることを考えてしまいます。

 

 

ユダヤ人収容所に収監された経験を持つオーストリアの精神科医ヴィクトール・エミール・フランクルは「この人生に何の意味があるのか」だなんて問いかける必要はないと言います。

 

そして次のようなことを、言っています。

 

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どんな時も、人生には意味があります。

 

どんな人の、どんな人生にも意味があり、なすべきこと、満たすべき意味が必ず与えられています。

 

ですから、人生の意味は何かと、問いを発する必要はありません。

 

 

私たちの人生は、私たちが、自分のなすべきことを、私たちがこの世に生まれてきたことの意味と使命とを実現していくための機会として与えられたものなのです。そのために「授かったもの」なのです。

 

逆に、人生のほうが人間に問いを発してきているのです。人生の方から人間に対してさまざまな問いを投げかけているのです。 

例えば「あなたはこの辛くて理不尽な出来事に耐え忍ぶことができるか?」

「あなたはこの別れの悲しみを乗り越えられるか?」とか。

 

 

人間は、このような人生からの問いかけに答えなくてはなりません。

そしてその答えは、人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはなりません。

 

 

私たちは、人生からの問いに、一つ一つ答えていくことで、人生の意味と使命を実現しているのです。

 

 

人生には、必ず意味があります。どんな人の、どんな人生にも意味があるのです。

この世にいのちある限り、意味のない人生なんて一つもありません。

 

あなたが、今、ここに、存在していることには、必ず意味があるのです。

そしてなすべきこと、満たすべき意味が必ず与えられています。

 

その意味を、あなたが発見してくれるかどうかを人生から問われているのです。

 

あなたは、人生から、その意味を見つけることができるのか試されているのです。

 

 

あなたの人生には、確かに何らかの意味がありますよ。

 

その意味、見つけあげてくださいね。

 

 

参考図書 「どんな時も、人生には意味がある。」 諸富祥彦 PHP文庫

「続・悩む力」 姜尚中 集英社新書

 

 

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ああ、そうなんだ。

 

「私のこの人生に何の意味があるのだろうか?」・・・だなんて、もう悩まなくてもいいのですね。

なぜなら、意味のない人生なんて一つもなく、意味があるに決まっているのですから。

 

何かの意味があるからこそ、私が、今、ここに存在しているのです。

いろいろな出会いがあって、いろいろな出来事が起きてきているのです。

 

 

素材は既に送り届けられています。 

その素材、それは時に辛い出来事、悲しい出来事なのかも知れません。

逃げたくなる、目を背けたくなることかも知れません。

 

 

でも、どんな出来事も、自分が満たすべき意味、果たすべき使命を発見するための素材として、送り届けられてきたのです。

 

何らかの意味は必ずあって、その意味を発見されることを期待されて、人生からあなたへ届けられているのです。

 

その意味を見つけてあげること。見つけようとすること。

 

そのような意識転換をはかることで、「意味なんてない」という疑念から解放されて、心の平穏を取り戻せそうです。

 

そしてそうすることで、一見辛かった出来事から、気づきや学びを得て、意味に満たされた幸せな人生へと導くことができるのかも知れません。

 

 

「人生に意味のないことなど起こりはしない。」

 

「どんな人生にも必ず意味がある。」

 

そう信じてみてはいかがでしょう。心に言いきかせてみてはいかがでしょう。

 

あなたの中で何かよい変化が起きるかも知れませんよ。

よろしければ試してみてくださいね。 

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※関連のお話です。

 

起きることには意味がある。

 

愛を学ぶために孤独がある

 

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7月28日(土)に行われる法教育「ジュニアロースクール仙台」まで1か月を切りました。

若手の弁護士たちが頑張って準備をすすめています。

子どもたちをたくさんほめて、楽しく過ごしてもらえる1日になればいいなと思います。

 

※「ジュニアロースクール仙台」応募受付中です!

詳しくはこちらをご覧下さい。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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平成24年6月17日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

今日は、梅雨の谷間で、久しぶりに太陽が顔を出してくれました。

小犬のマリとの散歩も、朝とお昼の2回行きましたよ。

 

雨の季節の晴れ間って、ありがたみが増して嬉しいですよね。

 

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期待と現実のギャップを感じるとき、思い通りにならないとき、人は、他者や自分に対して否定的な感情をいだくものです。

 

相手に対しては「何やってるの」「あの人はどうしてこうなのだろう」と責め、自分に向けては「私ってダメね」「こんな私なんて嫌い」という感情が湧いてきます。

 

期待はずれの相手に怒り、そんな相手に怒る自分も嫌になって、「どうしてこうなの!」「人も自分も何もかもみんな嫌だ!」と、心の中が黒い雲で覆い尽くされたりします。

 

 

それは、とても辛いことですよね。

 

夢や希望をもち、そこに向かって歩くことは大切なことですが、現在の自分が、なりたい自分から遠く離れていたとしても今の自分を否定する必要はありません。

 

でも、「自分や他者を否定する気持ち」はついつい湧き上がってきてしまって、どうしようもない・・・。

 

こんな「否定の気持ち」に対して、心の平穏を保つために、何かいい方法はないのでしょうか。

 

 

心理カウンセラーの諸富祥彦さんは、すべての気持ちに対して、「ただそのまま認めて、眺める」という「脱同一化」という方法をお勧めしています。

 

 

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 「脱同一化」という方法は、自分の中から生まれてくるすべての想念に対して、それがどんなものであれすべて「ただ、そのまま、認めて、眺める」姿勢を保ち続けることです。

 

どんなにつらく激しい気持ちであれ、それは自分自身とイコールではなく、自分の一部でしかないことを自覚的に体得していく方法です。

 

たとえば「こんな私じゃ、だめ」「こんな私は、嫌い」という思いがわいてきたら、「そうなんだね。わかったよ」とただそのまま、認めて、眺める。

 

死にたい気持ちがわいてきたら、「あぁ、死にたい気持ち、ここにあるなぁ」と、なにかものごとを観察するかのような姿勢で、ただその気持ちの存在を認めて、眺めていく。

 

何が出てきても「あぁ、こんな気持ち、ここにあるなあ」と認める。

ただそのままに認めて、眺める。

 

解釈したり、いじくったり、考えたりはしない。ただ認めて眺める。

 

 こうやって、どんな気持ちが出てきても、「ただそのまま、認めて、眺める」のをただひたすら繰り返していると、このような落ち込む気持ちと、それを眺めている自分とは別であること、そして眺めている自分こそ自分であり、落ち込んだ気持ちはどれほど強烈であれ、それは、自分のごく一部にすぎないことがジワーッと自覚されてきます。

 

 すると、その否定的な気持ちと自分自身とのあいだにおのずと「距離」(空間/スペース)が生まれてくるのです。

 

「私は私である。私は圧倒的な自己否定感がある。でも私は自己否定感そのものではない」

「私はここ。自己否定はそこ」

 

それを何度も反復することによって、自分の中の否定的な気持ちから、少しずつ「距離」がとれるようになって、他者や自己を否定する気持ちに、心を覆い尽くされたりすることがなくなり、他人や自分に対するイライラした気持ちが溶けて消えていくのです。

 

 

「人生を半分あきらめて生きる」諸富祥彦 幻冬舎新書

 

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なるほど。

自分の感情を否定するのではなく、ただ眺めるということなのですね。

 

ネガティブな感情、それは怒りだったり、憎しみだったり、嫉妬だったり。

そうした感情が湧いてくると、その感情に心を覆い尽くされ、相手を責め、また自分を責める感情で心が痛みます。

 

そんな感情はいけないんだ、と頭ではわかっていてもも、どうにもならず心の中で悶々としてしまいます。

 

そんな時、負の感情に真正面から向き合って解釈したり、いじくったり、否定したり、どうにかしようとせずに「ああ、今、こんなことを思っているんだね」とただ眺めるのがいいのですね。

 

誰かに怒っているときは「ああ、今、怒っているんだね」、嫉妬しているときは「ああ、今、嫉妬しているんだね」と。

 

流れる雲を眺めるように、自分の気持ちを引いて眺めていく。そうすると、意外と落ち着きを取り戻せたりします。

 

自分の感情と距離をとって眺める、相対化させる。

 

この「脱同一化」、諸富さんがいうには、シンプルな方法ですが、やってみると意外に難しく、反復練習をしていくことが大切だそうです。

でも、身につけると、ものすごく効果があるとか。

 

もし、あなたが何かに怒ったりしたら、「ああ、怒っている」と「ただそのまま認めて、眺める」ことを試してみてくださいね。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

 

※関連のお話です。

 

感情さん、今、怒っているんだね。

夢と現実のバランス

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平成24年6月10日(日)

 

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

この週末は雨模様で、仙台も梅雨入りしたそうです。

 

梅雨の季節は、お天気の日が恋しくなりますよね。でも雨の日には、雨の日のよさや楽しみもあるでしょう。

雨の日だから感じられる気持ちもあるでしょう。

 

そんなことに気づくことができたらいいですね。

 

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さて、田坂広志さんの「企画力」という本を読んでいたら、「面白みのある人間」という言葉に目がとまりました。

 

「面白みのある人間」って何だろう?

 

 

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人間が面白いとは、決して「社交的な人間」や「遊び好きな人間」また「話題の豊富な人間」や「話術にたけた人間」という意味ではありません。

 

それは「生き様」が面白いことです。「面白みのある人間」とは、「生き様」が面白いのです。

 

 

では「生き様」が面白いとは何でしょうか。

 

 

それは「夢」と「現実」のバランスの取り方が面白いのです。

 

心の中に明確な「夢」を持っている。その「夢」を実現したいと考えている。

しかし、ただ「夢」を見ているだけの「夢想家」ではない。目の前の厳しい「現実」をしっかり見据えて歩んでいる。

 

しかし、その「現実」の厳しさを前にしても、決して「夢」をあきらめない。

単に「現実」を受け入れるだけの「現実主義者」ではない。

 

自分の置かれている立場と自分に与えられた力で、どうすれば、その「現実」を変えていけるか。

わずかでも変えてゆけるか。そのことを考えている。

自分の抱く「夢」に向かって、どうすれば一歩でも進んでいけるか。そのことを考えている。

 

そのバランスの取り方が、面白い。

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「夢」と「現実」の狭間で、どちらの極にも流されず、粘り腰で、したたかに、バランスを取りながら歩み続けていく。

その生き様は、面白くもあり、魅力的でもある。

 

 

人間の面白みとは、この「生き様」の面白みなのです。

 

 

田坂広志「企画力」PHP文庫より

 

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人間が面白い=生き様が面白いって、「夢」と「現実」のバランスのとり方が面白いということか・・・。

 

 

確かに、夢や志を持って、現実から変化を巻き起こしていく物語は面白いものです。

例えば坂本龍馬の生き様が面白いのは、龍馬の生き様がまさに「夢」をもち「現実」を変えていく物語だからです。

 

 

単に夢だけ語って何もしない人や、逆に夢を持たずに現実に留まるだけの人の人生は面白い物語になりません。

 

 

「私には夢がある!」といったキング牧師も、実際に行動が伴っていたからカッコいいのです。

夢だけ見て、何もしない人が「私には夢がある!」といっても全くパッとしませんよね(笑)

 

 

「夢」を見ることは大切なことです。でも、それだけでは面白くないのです。

「現実」を受け入れることは大切なことです。でも、それだけではつまらないのです。

 

「夢」も「現実」のどちらも人生の「面白み」には必要なのです。

 

 

「夢」を見て、その上で「現実」をおさえて、夢の実現に向けて現実を変化させようとする行動を伴わなければ面白くないのです。

 

 

「夢」も「現実」もどちらもふまえた上で、両者のバランスをとること、「夢」を持ちながら、現実をふまえて、現実を変える行動を起こすこと、それが大切なことなのですね。

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なかなか難しいことですが「夢」と「現実」のバランスをとって歩いていきましょう。

 

 

※関連のお話です。

 

あなたの夢は何ですか?2

 

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毎週日曜日河北新報掲載の「おじさん図鑑」(飛鳥圭介さん)というエッセイを楽しみにしているのですが、

今日のお話は、ちょっと辛口でドキリとするお話でした。

 

それは「育てた」と言った瞬間、薄っぺらい人物と見透かされるというものでした。

 

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AさんがBさんを指導したとして

Aさんが「今を時めくBね。あいつはねおれが育てたんだよ。彼の今があるのはおれのおかげさ」

こういってしまうと聞かされた人から、Aという人物は薄っぺらい人物と見透かされる。

 

逆にBさんが、「私はAさんに育てられて今日があるのです」といったら、なんて謙虚で恩義に厚い人だろうとBさんの評価が高まる。

 

職業上のことでも「育てた」は禁句。恩は着せるものではなく着るものだ。

恩は着せたとたんに情けない嫌みと化す。

 

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確かにそうかもと思いました。

 

 

恩は着せるものではなく、着るものなのですね。

 

 

私も誰かに何かを教えることも多くなってきましたので、これは気をつけなければ!と思ったお話でした。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

自分を見失わないために-表現の自由の重要性

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平成24年6月3日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

6月に入りました。間もなく梅雨ですね。

ご近所のあやめの花もきれいに咲いています。

あじさいが咲くのももうすぐでしょう。

 

晴れた日のあやめやあじさいも綺麗ですが、雨の中で咲く、あやめやあじさいの方が、どこか優しい感じがして私は好きです。

 

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以前、三好達治の「昨日はどこにもありません」という詩をご紹介いたしました。

 

昨日はどこにもありません 

 

今回は、彼の短い詩をご紹介したいと思います。

  

「春」

 

鵞鳥。-たくさんいっしょにゐるので、自分を見失わないために啼ゐています。

蜥蜴。-その石の上にのぼってみても、まだ私の腹は冷たい。

 

「測量船」より三好達治

 

 

・・・・だから、いったい何なんだ!

 

 

とつっこみを入れたくなるかも知れませんね(笑)。

 

 

たくさんの鵞鳥(ガチョウ)がいて、ガアガア鳴いている。

蜥蜴(トカゲ)が石の上で、ひなたぼっこしているもののどこか寒そうに見えた。

 

という春の情景をうたった詩なのでしょうか。

 

それから、私は、こんな風に、受けとめました。

 

たくさんの仲間と一緒にいる。組織の中で、集団の中で暮らしている。

そんなとき、何も考えず誰かの考えをうのみにして、誰かのいうとおり生きていくことは楽なことだ。

考えなくていいというのは実に楽なことだ。

でも、それでいいのかな。本当にそれでいいのかな。

 

自分がどこかへ消えてしまいそうで、自分を見失ってしまいそうで、怖い気がする。

そもそも自分の人生を生きていないような気がする。

 

だから、自分を見失わないために、自分の頭で考え、表現することにしよう・・・。

 

 

 

憲法が保障した重要な人権として「表現の自由」というものがあります。

憲法の人権リストの中でも、特別なものとして捉えられる自由です。

日本国憲法は、国家に対して、「表現の自由を侵害することのないように」と縛りをかけています。

 

21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

 

どうして、憲法は表現の自由を重要な人権として保障したのでしょうか。

 

それは、自己実現、自己統治の価値が、表現の自由にはあるからです。

一人ひとりが個人として尊重されるためには、表現の自由が保障されることが、必要不可欠だと考えられているからです。

 

人はみな、考え方や大切にしているものが違いますよね。

だから一緒に社会で暮らしていくには、お互いの意見をよく聞き、話し合うことがとても大切なのです。

 

法教育授業で、子ども達には、表現の自由の自己実現、自己統治については、こんな風に伝えたいと思います。

 

 ○自己実現の価値=自己の人格形成にとって、表現の自由は、必要不可欠であること

 

 「本を見たり、人の話を聞いたりしたことで、人は頭の中で、考えることができます。世の中のしくみを知ることができます。そして、人と話をしたり、書いたりすることで、人は、人とつながっていくことができます。人は、いろいろな考えをもっていることに気がつく。そうした人とのつながりの中で自分というもの、その人らしさがつくりあげられていく、自分らしく生きていくことができるのですよ。」

 

 

○自己統治の価値=表現の自由は、民主主義の基盤をささえる

 

 「みんなのことはみんなで決める。みんなのことは、みんなが『話し合って』きめる。それが民主主義とよばれるものです。話し合ってきめるには、お互いに、話すこと、書くこと、聞くこと読むことが、自由でないとできないよね。だから、みんなのことはみんなで決めるには、話したり、話を聞いたりすることが自由であること、禁止されていないことが大切なんだよ。」

 

 

人が、他のたくさんいる人たちと同じ社会で一緒に暮らしている以上、他者とつながりつつ、自分を見失わないためには、自分の頭で考え、他者と話し合いをし続けることが大切なのですね。

 

表現の自由はこうして憲法によって保障されていますが、その自由を十分に活かしているかは、常に自らに問い続けなければならないと思っています。

 

私たちは、ついつい楽だからといって、考えることを放棄してしまって、表現することを投げ出してしまい、誰か偉い人や多数派の考えをうのみにしてしまいがちではないでしょうか。

また逆に気に入らないと思って、反対の立場や価値観の違う人達の言葉は、最初からシャットアウトしてしまっていないでしょうか。

 

 

本当にそうなのかな、と考え続けること、表現し続けること。

 

 

それは、ちょっとしんどいことだけど、社会の中で、自分を見失わないために、

自分らしく人とつながりながら生きていくために、とても大切なことなのだと思います。

 

 

鵞鳥。-たくさんいっしょにゐるので、自分を見失わないために啼ゐています。

 

 

 

以上鵞鳥のお話でした。

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蜥蜴については、いつかまたの機会に(笑)。

 

 

※関連のお話です。

 

民主主義と立憲主義2-表現の自由がない世界

 

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先週、東北大学無料法律相談所に相談のお手伝いに行きました。

 

学生さんと話をしたら、なんと高校生のとき、仙台弁護士会のジュニアロースクールに参加したというではないですか!

 

仙台弁護士会ジュニアロースクールも今年で8年目。

たった1日のことではありますが、あの日をきっかけにして、もしかすると弁護士を目指し、弁護士になる人もいたりするのかなあと思い、感慨深いものでした。

 

法教育は、決して法律家を養成する教育ではありませんが、法教育授業を受けたことで、弁護士という仕事に興味を持ってもらえたとしたら嬉しいものです。

 

今年の「仙台弁護士会ジュニアロースクール」は7月28日(土)実施予定です。

現在、若手の弁護士さん達が中心となって、がんばって準備していますよ!

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

守ってくれてたんだね。―地球磁場、木星、太陽風

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平成24年5月27日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

5月21日は、金環日食でしたね。

 

仙台では、金環にはなりませんでしたが、太陽が少しずつ欠けていく様子を見るのは、とても神秘的で、不思議な気持ちになりました。

  

太陽があり、月があり、そして地球という星があるのですね。

 

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先日、大崎市にある「パレット大崎」のプラネタリウムを見に行きました。

星や星座を説明する普通のプラネタリウムの後、平原綾香さんの歌(Jupiter等)やお話をバックに、星の映像を眺めていくという特別番組がありました。

 

 

今日は、それをもとにしたお話です。

 

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地球は、太陽からの距離がちょうどよく、生命が生きるのに適切な温度となっています。

 

金星はほんのちょっと太陽に近すぎて、火星はちょっと太陽から遠すぎて生物が住むことができない星となっています。

 

 

でも、太陽からの距離がちょうどよいだけでは、生命は生きられません。

 

 

太陽からは、太陽風という生命にとって有害なものが出ています。

太陽風を受けると生命は生きてはいけません。

 

 

しかし、地球には磁場があり、磁場によって太陽風が遮られています。

磁場が太陽風を遮ってくれて、生命は守られているのです。

 

 

オーロラって神秘的で綺麗ですよね。

オーロラは、地球に磁場があることによって見られる現象です。

 

オーロラは、太陽風と地球の磁場がぶつかり合って輝いています。

オーロラが輝いているのは地球の磁場が太陽風から生命を守っている証なのですね。

 

 

木星(ジュピター)は、太陽系最大の惑星です。

 

 

木星は、大きな星だから、重力が強いのです。

その木星も、地球に影響を与えています。

 

木星は、太陽系に侵入してくる彗星やいん石を引き寄せて、地球に近づけないでくれるのです。

木星が、彗星やいん石を引き寄せて、自らに衝突させているのです。

 

 

もしも木星がなかったら、地球に彗星やいん石が衝突してしまうかも知れません。

 

 

木星は、私たちが気がつかないところで、守ってくれていたんですね。

 

 

 

 

ところで、宇宙には、銀河放射線という生命にとって極めて有害なものが飛び交っています。

銀河放射線を浴びると生命は生きていけません。

 

 

でも、太陽からでる太陽風が太陽系を覆うことによって、銀河放射線は太陽系に入ってこないのです。

 

 

そう、太陽風もまた生命を守っていたのですね。

 

 

悪者に見えた太陽風も、実は、地球を守ってくれていたのです。

 

 

 

地球の磁力が太陽風から生命を守っている。

その太陽風は、銀河放射線から太陽系全体を覆い、地球の生命を守っている。

木星は、自らに彗星を引き寄せ、落として地球を守っている。

 

 

地球は、いくつもの奇跡によって守られている。

 

生命は、いくつもの奇跡によって守られている。

 

 

私たちは、気づかないところで、守られているのですね。

 

ずっと、ずっと守ってくれてたんだね・・・。

 

 

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このように生命が、気づかないところで、守られているように、

人も、気づかないところで、誰かに守られているのかも知れません。

 

私も、あなたも。

 

「私が気づかない誰か、こうして守ってくれて、ありがとうございます。」

 

※関連のお話です。

 

あなたはすでに愛されている

 

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事務所の場所を青葉区片平から、泉区泉中央に事務所を移し、また弁護士の塩谷久仁子さんに入ってもらって、はやいもので約1年になりました。

 

移転以来、おかげさまで泉地区の方を中心に、多くの方に相談に来ていただきました。

ありがたいことと感謝しています。

 

また塩谷さんは、人柄がよく、また経験も感性も得意分野も私と違っていますので、事件解決に向けて、気軽にいろいろと教えてもらい、助けてもらっています。

 

事務所の中で、相談できる弁護士さんがいるというのは、いいものですね。

 

なので、もう一人、経験があって頼りになるいい弁護士さんに入ってもらうといいかも!とそんなことを考えていたりします。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

 

牛模様の犬、牛になめられて「ん~幸せ~」の写真です。

(友人のAさんから提供していただきました)

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平成24年5月13日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

昨日、先輩弁護士のS先生のお勧めで、広瀬川沿いのヤマモモを見に行きました。

一本の木に、白、ピンク、赤の花が咲き、新緑の緑と青い空が組み合わさって、とっても綺麗でした。

 

あまりの気持ちよさに、広瀬川沿いの散歩道を、小犬のマリと歩きながら、

「広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず 早瀬おどる光に 揺れていた君の瞳♪」(青葉城恋唄)

とつい口ずさんでしまうのでした。

 

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さて、テレビで「名作ホスピタル」という番組を見ていたら、「人間関係×未来少年コナン」という題で、アニメ「未来少年コナン」の主人公コナンがジムシーと親友になったシーンから人間関係を築く方法を学んでみようというお話がありました。

 

人間関係をよくするには「アサーティブな対応」というのが、よいそうです。

 

例えば、誰かから何か仕事を頼まれたが、他にやることがあって、その仕事ができない場合、いったいどのような対応をすればよいでしょうか?

 

仮にあなたが「この報告書の作成、今日中にしてくれないかな?」と上司から頼まれたとします。

しかし、あなたにはどうしても他にやらなければならない仕事があって、今日中に仕上げるのは難しい・・・そんなとき、どのような対応をすればいいのでしょう?

 

 

①「そんなの無理です!できません。別の人に頼んでください。」

 

②内心、とてもできない困ったどうしようと思いつつ、できないことが言えなくて「・・・わかりました」と引き受けてしまう

 

 ①の対応では、上司の反感を買ってしまい、上司との関係もギスギスしてしまいそうです。

他方で②の対応では、上司の反感は買わないかも知れませんが、自分の感情を抑えつけて、相手に合わせてしまい、ストレスがたまりそうですね。

言いたくて言えない自分が嫌になったり、相手のことを嫌に思ってしまったり。

やはり、人間関係はギスギスして辛くなってしまいます。

 

 

①は「攻撃的対応」、②は「非主張的対応」と呼ばれますが、いずれも人間関係はうまくいきそうにありません。

 

特に②の「言いたくてでも言えない」方は、結構いらっしゃるかと思いますが、きっとこれまでストレスをためられていることでしょう。

ため込みすぎると、いつか爆発したり、体をこわしたりすることにもなりかねません。

 

そこで、オススメなのが第3の対応である「アサーティブな対応」というものです。

 

アサーティブな対応とは、自分の感情を大切にしながら、感情や主張を相手に伝えつつも、相手の感情にも配慮するというものです。

自分の状況(事実)を伝え、自分の感情と主張を伝えること、そして提案をすることが、要素です。

 

先の例ですと

③「大変申し訳ないのですが、本日中にやらなければならない用件がありまして、本日中に報告書を作成するということであれば、お引き受けできません。ご期待に添えず申し訳ありません。しかし、明日の夕方までならば、仕上げることができますが、それでは間に合いませんでしょうか。」

 

といった対応になります。

1)私は、別の用件があって今日中に報告書の作成はできない状況であること(自分の状況、事実-根拠)

2)だから今日中に、報告書を作成するという仕事は引き受けられないこと(自分の主張-結論)

3)期待にそえず申し訳ないと思っていること(相手に配慮した感情を伝える)

4)明日の夕方までならできそうだと代案をだすこと(相手へ配慮した提案をする)

 

自分の感情に沿いながら、できないことを伝え、かつ相手のことも考えて、別の提案をしています。

 

このような対応をされたら、上司としても、大抵納得することかと思います。

自分の感情を押し殺している訳でもなく「言いたいことは言っている」ので、ストレスをため込むこともないでしょう。

 

 人間関係での対応は①「攻撃的」②「非主張的」③「アサーティブ」の3つにわけられていて、

良好な人間関係を築くためによいのが「アサーティブな対応」なのです。

 

相手に、言葉で言わなければ分からない自分の情報(事実と感情)を伝えて、相手の立場や感情に配慮しつつも、自らの主張を伝えていくものです。

 

「アサーティブな対応」、人と人との温かなつながりを築いていくために、知っておくといいお話だなと思いご紹介しました。

 

もしよろしければ、あなたも「アサーティブな対応」を意識されてみてくださいね。

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※関連のお話です。

 

自分の気持ちは、相手には分からないもの

 

法教育授業の終わりに

 

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5月13日日曜日は、母の日でした。

旧司法試験の択一試験は、毎年母の日が試験日で、長く受験生をやっていた私は、母にも、長く心配をかけてしまいました。

 

もう最後の受験から14年も前のことなのに、母の日=択一試験の日、そして、母や父に心配をかけた日という記憶は、ずっと今も心に残っています。

長くかかってしまったので、すり込まれてしまったのかな(汗)

 

 今やたくましい母となった妻にも、あの頃は、ずいぶんと心配をかけました。一緒にお花見もできなかったしね・・・。

 

「おかあさん、ありがとう。」

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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平成24年5月5日(土)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

5月になり、新緑がまぶしい季節になりましたね。

家の窓から見えるカツラの葉もいつのまにか芽吹いていました。

 

ケヤキやカツラの葉は秋になり落葉しても、また春になって生まれてきます。

葉を生み出す樹木は、冬を乗り越え、存在し、春にまた葉を生み出しました。

 

人という存在は、葉に近いのかな、それとも木なのかな・・・

  

カツラの葉を眺めながら、ふとそんなことを考えてみました。

 

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「着眼大局 着手小局」という言葉があります。

物事を大きな視点から見て、小さなことから実践するという意味です。

 

 

着眼大局とは、物事を全体的に大きくとらえること。また、広く物事を見て、その要点や本質を見抜くこと

 

着手小局とは、細かなところに目を配り、具体的な作業を実践をすること

 

まずは、全体を眺め、大きな方向性を定めて、そこから具体的な行動に落とし込み実践していく。

 

このように柔軟に、全体と部分、目的と手段について考えることは、仕事の場面はもちろん、それ以外のいろいろな目標達成や問題解決の場面でも有用なものかと思います。

 

それに、人との間でトラブルが発生した際の修復が、ずいぶん楽になると思います。

 

「問題の本質はどこにあるのだろう?」と大きな視点から見て

 

「それを解決するには、具体的にどのような行動をすればいいのだろう?」と目的から具体的な行動に落とし込んで、実際に行動をする。

 

意外とやってしまいがちなことは、細部にとらわれて、全体を見渡せなくなってしまうこと、

目的を忘れて、手段にすぎない部分ではまってしまうこと。

 

 

私も何度もこれまで「あれ、いったいこれは何のためにやっていたんだろう?」

と手段にはまってしまって、目的や本質から離れてしまったことがありました。

 

 

他者に対して、何かを伝えようとする場面においても、「全体→部分」、「目的→手段」、「本質→具体化」の流れをしっかり押さえていないと、なかなか伝えたいことが伝わりません。

 

本を読んでいるとこんな例が紹介されていました。

 

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研修会社のAさんが、クライアント企業のB人事課長に、コーチング研修の実施をオススメしています。

 

Aさんが「コーチング研修は理論編と実践編に分けられまして・・・」と具体的な説明をしたところ、B人事課長の顔がみるみるうちに曇ってきました。

 

これはまずいと感じたAさんは何とか挽回しようと、「失礼しました。もっと具体的に説明します。理論編はコミュニケーションの基礎理論とコーチングテクニックに分けられ・・・」とさらに具体的な説明を重ねたのです。

 

ところが、Aさんの意図に反し、B人事課長はさきほどよりも渋い顔をして、「そういうことが知りたいんじゃないんだけどね・・・」と一言。

 

さて、Aさんの話のどこが間違っていたのでしょうか?

 

 

Aさんの間違っていたところは、コーチング研修を実施するための手段、具体的な中身を話そうとしたことにあります。

 

B人事課長にとって、コーチング研修はあくまで手段です。

聞きたかったのは、「コーチングがどういう効果をもたらすか?」「なぜコーチング研修が必要なのか?」というそもそもの目的についての話だったのです。

 

物事を実行するときには、中身を細かく分解し具体化することが必要です。

 

しかし、その前に、目的・全体を考えないと本末転倒です。

物事は大事なことから考えていきましょう。

 

まずは大きなところ(目的・全体)から目を付ける。次に細部(手段・部分)に目を配る。

これが「着眼大局、着手小局」です。

  

「なぜか成果が出てしまう人」の習慣術 土井哲 髙木進吾 東洋経済

 

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意外と、Aさんのような間違いをしてしまいがちですよね。

 

そもそも何の役に立つのかといった根本的な説明をせずに、枝葉末節にとらわれて、細部の専門的な説明を延々としてしまうと引かれてしまいます。

 

懸命に何かを伝えようとしたのに、相手に思うように伝わりません。

 

 何か、企画をたててやろうとする時に、それがどのような目的なのかを明確にして、そこから具体的にやることを決めなければ実際にやっていることが、目的と離れてしまったり、手段が目的化してしまったりすることになりかねません。

 

試験の勉強も、合格するために何が必要なのかを意識していないと単に勉強のための勉強になりかねません。

 

家族を喜ばせようと企画した家族旅行で、渋滞のイライラで家族にあたったり、食べたい食事等でけんかをしてしまっては、本末転倒です。

 

企画を立てるとき、着手するとき、そして実践しているときも常に「何のためにそれをしようとしているのか?それをしているのか?」と目的を意識しなければいけないのですね。

 

具体的な行動、実践は必要です。歩いていかなければ、目的地にたどり着くことはありません。

 

 しかし、ただやみくもに歩いても目的地にたどり着くことはできません。

ベクトルがずれていると、せっかく歩いたのに、「あれれ、逆に遠ざかってしまった!」といった何とも残念な結果になってしまいます。

 

方向性を定めて、そこに向かって歩くことによって、はじめて目的地にたどり着くことができるのですね。

 

常に、「何のために?」を問い続けつつ、方向を確認しながら、歩き続ける。

 

私も、残念なことにならないように、常に「何のために?」を意識しながら、歩いていこうと思います。

 

 

※関連のお話です。

 何を求めているのだろう?-目的は何か

 

個人の尊重-人格そのものを目的として尊重する

 

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自分の中で、大局でものごとを眺め、細かな行動を積み上げていくということも大切ですが、誰かとコンビを組んだり、チーム全体で「着眼大局 着手小局」を分担してやっていくというのも必要なことがあるでしょう。

  

大局的にものごとを見ることが得意な人は、分析的に細かな行動ができる人と

コンビを組む、チームをつくるとお互いに補っていいのでしょうね。

 

 

あやめ法律事務所も、縁あって私たちの事務所を選んでくれた方のお役に立てるように、みんなで協力して「着眼大局 着手小局」ができる素敵なチームになるべくがんばっていきたいと思います。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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「個人の尊重」を伝える-何かを大切に思う気持ちに違いはないこと

弁護士 神坪浩喜

 

 私は、弁護士として法教育活動に携わるようになってから8年くらいになります。

 法教育とは、一般市民、特に子どもを対象として、個人の尊重を基底とした法の原理原則(正義、公平、立憲主義、無罪推定原則等)をふまえ、法的なものの見方・考え方ができ、主権者として民主主義社会に参画できるような自立した個人の育成を目指す教育です。私が考える法教育の目標を一言で言えば、憲法が最高の価値をおく「個人の尊重」の理念を子どもたちの心に浸透させていくことです。

 

「個人の尊重」とは、一人ひとりをかけがえのない存在として大切にするということです。一人ひとりをかけがえのない存在として大切にするということは、人を人として大切にするということであり、誰もが、国家や力の強い者、多数者から、何かの目的のための道具や手段、モノ扱いをされないということです。

 

「一人ひとり」には、他者のみならず、自分も含まれます。だから自分も大切にし、他者も大切にするということです。一人ひとりの人、誰もがこの世に意味があって生まれてきています。ぞんざいに扱われてよい命なんてどこにもありません。どの命も大切な命です。そして、誰もが、一人の人間として、自由に自分の幸せを求めて生きていけることが保障されなければなりません。

 

ところが、実際のところ、日本の現代社会においては、自由に自分らしく生きることは、なかなか難しいのではないでしょうか。憲法が保障する「幸福追求権」が、きちんと保障されているとは言い難いのではないでしょうか。競争社会で、いつも人と比べられて、人に勝たなければいけない、人より優位にたたなければいけないと追い立てられているようです。また、多様な価値観を受け入れることがなかなかできずに、自分とは異なる考え方の人や少数派の人々への理解が不足しているように感じます。どこか、多くの人々が自分を守ることで精一杯で余裕がなく、他者に寛容であることが難しい世の中であるような気がしています。

 

私は、幸せの前提は、人として大切に扱われることであり、人と争わずに温かくつながることだと思います。その上で、自分が自分らしく自由に生きるということです。きっと誰もが、人として大切に扱われたい、そしてできることならば、人とは争わずに温かくつながりたいと思っているのではないでしょうか。そして、型にはめられた幸せではなく、自分らしく自由に生きてみたいと心の底では誰もが思っているのではないでしょうか。

 

私は、仙台弁護士会の人権擁護委員会に所属していたのですが、そこでは、刑務所受刑者からの処遇に関する人権救済申立が多数よせられていました。その申立ての背後には、「自分を人として扱ってくれない」というような哀しみをよく感じます。また、弁護士の仕事をして、人と人との紛争の中に身をおいてみると、多くの紛争の背景には、相手が自分を人として大切に扱われなかったことについての相手への怒りや哀しみがあることをよく感じます。

 

人は、誰かから、人として大切にされず、モノや何かの道具・手段として軽く扱われたとき、深く心を痛めるものです。また、自分の意見を全く聞いてもらえず、無視され、一方的に何かを押しつけられたとき、哀しみや怒りを感じます。そして、自分をモノとして扱った国家や集団、誰かを恨んだり、反発したり、攻撃したりしてしまいます。そういったことが蔓延するとギスギスした乾いた社会になるでしょう。そうなると攻撃的で、不寛容で、些細なことでお互いに責め合う社会になってしまうのではないでしょうか。

 

逆に、誰かから、人として、自分のありのままの存在を大切にされたとき、人は、とても深い喜びを感じますよね。大切にしてくれた人のことは、きっと自分も大切にしようと思いますし、感謝の気持ちを抱き、信頼もするでしょう。お互いがお互いを人として大切にする社会は、信頼を基底にする社会であり、他者という存在は、攻撃したり、利用したりする対象ではなく助け合うもの、支え合う対象として捉えられ、優しく寛容な社会になるのではないでしょうか。

 

信頼と寛容をベースにする社会、自分も他者も人として大切にする社会になるためには一体どうすればいいのでしょうか。

 

まずは当然のことながら「人を人として大切にする」という意識を一人ひとりに浸透させることが重要です。人を何かの手段や道具にしてはならないことを伝えることが必要です。そしてさらに、それを実践するためには、次の二つのことを押さえておく必要があると思います。

 

一つは、人はそれぞれ違っているということです。

誰もが生まれたときから違っています。誰一人としてこの世に同じ人はいません。誰もが違って、この世に唯一のかけがえのない人なのです。生まれてきた環境、何が好きか、何が得意なのか、何を大切にしているのかは、人それぞれです。みんな違っています。

 

それからもう一つは、人は誰もが「自分フィルター」を通して世の中を見ているということです。自分は、どんなに客観的に物事を見ていると思っていても、それはあくまで自分が選んだ情報をもとに、自分の価値観を通して、事実を認識し評価しているのです。あくまで自分個人の「主観的な」ものの見方・考え方であり、自分は「偏っているかもしれない」、「間違っているかも知れない」ということを踏まえておかなければなりません。

 

ところが、つい人は、自分が思っているように人も思うべきだ、自分は正しい、間違っているのは相手の方だと思ってしまいがちなのですね。自分中心に物事を考えてしまいがちなのです。

特に、自分の考え方が多数派である場合には、自分達の考えとは違う少数派の考え方については、「異質だ」「変わっている」「常識ではない」等と思って、なかなか理解できないものです。

それぞれが「自分が正しい。相手が間違っている。」と一旦思いこんでしまうと、ぶつかりあって、反発し合い、共に同じ社会で暮らしていくことは難しくなってしまうでしょう。

ですから、「人はそれぞれ違っていること」そして「人は物事を自分フィルターを通して見ていること」この二つのことをまず押さえておかないと「人を人として大切にする」ということは、困難なことではないかなと思っています。

そして、これは、なかなか普段暮らしていく中では、会得しにくいものです。だからこそ体験的な「教育」によって伝えていく必要があるのです。人を人として大切にするために大切なことは、自分の考えを絶対視せず、他者の意見を鵜呑みにすることなく、常に自分の頭で考え続けるということです。政府や偉い誰か、メディアが、言っているからといって鵜呑みにはしないこと、思考停止しないことです。参考にはしても、自分の頭で「それは本当にそうなのかな?」と考え続けなければ、情報を提供する側が意図するまま、考え方を操作されることにもなりかねないのです。

他方で、弱い立場の人、少数の人、自分とは正反対の他者の意見や価値観も尊重にするということです。尊重するとは、自分と考え方や価値観の違う誰かの意見を、排斥したり、無視したり自分の考えを押しつけたりすることなく、受けとめるということです。

 

では、自分とは異なる価値観や考え方を受けとめるために必要なことは何でしょうか?

二つあると思います。

一つは「想像力」です。相手が大切にしているものを知ろうと想像することです。
自分とは違う考え方の人がいるということ、自分の考えだけが絶対ではないということをふまえて、相手の立場に立って考え、相手にも大切に思っている何かがあるということを想像することです。

 

二つめは、しっかりと相手の意見に耳を傾けることです。言葉を通じてお互いの考えをよく知り合うということです。

法教育授業では、人はみな違っていること、自分の考えとは違う考え方があること、そして違う考え方の人の立場を想像することが大切であるということを体感してもらうために、様々な価値観がぶつかり、はっきりとした正解がないような問題を、生徒さん同士の議論を通じて、生徒さんに考えてもらいます。そして、自分以外のいろいろな意見を聞いた上で、自分なりに考えた意見を発言してもらいます。

 

一つ例をあげましょう。仙台弁護士会では、毎年夏に中高生対象にジュニアロースクールを実施していますが、平成22年度は、高校生を対象にした法教育授業では、エホバの証人信徒輸血拒否事件(最高裁平成12年2月29日判決)を題材としました。

信教上の理由から輸血をしないでと頼んでいた患者と患者の命を救うために輸血に踏みきった医者といった当事者役が登場し、生徒さんに、自らの主張や心情をせつせつとうったえてもらいます。生徒さんは、当事者約の主張をよく聴いてもらって、患者から医者への慰謝料請求が認められるかを生徒さん同士で討論し、考えてもらいました。患者、医者、それぞれの立場があり、価値観があり、意見があります。その当事者役の声を生徒さんに聞いてもらって、それぞれの立場があること、それぞれの価値観があること、それぞれ大切にしているものがあるということを体感してもらい、その上で、生徒さん自身に考えてもらいました。裁判官でも判断が分かれた正解のない問題を考えてもらいました。

人は、往々にして自分の価値観を中心に、ものごとを判断していくものであり、自分と違う価値観についてはなかなか理解できないことも感じてもらいました。

自分と違う価値観は、その人の意見をしっかり聞くこと、そしてその人の価値観を意識して想像してみなければわからないものです。

患者さんは、命を助けてもらったのに医者を訴えたというものであり生徒さんにとっても理解しにくいものだったようです。命より信仰を大切にするなんて、よくわからない。医者に命を助けてもらったのに、輸血しないことにこだわって命の恩人のお医者さんを裁判で訴えるなんて、一体どうして?

でも、患者さんの、「輸血を絶対にしないで欲しい」という言葉の背景には、患者さんにとっては、自分が人として生きる上でとても大切にしているものがある訳です。命と同じくらい、時には、命以上に大切に思っているものもあるのです。

自分と違う価値観、特に相手の考えが少数なものであったとき、その価値観の存在を受け入れることは、本当に難しいものです。想像力を一生懸命働かせる必要があります。相手の言葉に意識的に耳を傾け、分かろうと努力する必要があるのです。

 

この授業を実際に担当した髙城晶紀弁護士は、授業の終わりにこう締めくくりました。
「その人の判断を尊重するというのは簡単ですが、しかもそれだけ聞くとそのとおり実行するのも簡単なように感じてしまいますが、その判断が、自分の価値観とはかけ離れたものであったり、自分の価値観と衝突するようなものであったりすると、人は、なかなか、その価値観や考えを尊重してあげようという気分にはなれないものです。
でも、自分にはその考え方は理解できなくても、自分に大切にしている価値観や信念があるのと同じように、その人にとってはその価値観や考え方が大切なのだということ、自分と相手の大切にしているものの中身が全く違っていたとしても、何かを大切に思う気持ちに違いはないのだということがわかれば、異なる個性、異なる価値観をもった人達が、互いに傷つけ合うことなく、一緒に生きていけるのではないかと思います。」

 

そうです。「何かを大切に思う気持ちに違いはない」のです。

 

憲法を頂点とする一連の法は、いろいろな価値観、考え方の人がいる中で、人々が共に幸せに生きることを目指すものです。共に幸せに生きることを実現するためには、人がお互いに傷つけあうことや争いごとを減らすことです。そして、「何かを大切に思う気持ちに違いはない」ということが、一人ひとりの心の中に落とし込めたならば、将来、今より、きっと争いごとは減り、人といがみ合わず人は人の中で自由に自分らしく幸せに生きることができるのだろうと思います。

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「一人ひとりをかけがえのない存在として大切にする社会」それは、すなわち憲法がうたう「個人の尊重」が人々の心に根付いた社会です。そんな温かな社会になっていくといいと思っています。

 

だから、これからも私は、憲法がうたった「個人の尊重」を子ども達に伝えるために法教育をやっていこうと思っています。

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平成24年4月22日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

仙台でも桜が咲き、見頃を迎えています。

 

この時期、新しい人々、新しい環境の中で、

ちょっと疲れてしまった方もおられるかも知れませんね。

 

そんな時は、少し自分だけの落ち着いた時間をとってみられていはいかがでしょう。

わいわいお花見をするのもいいですが、一人、花と対話するのもいいものですよ。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

弁護士の目の前には、何かしらのトラブルを抱えた方が来られます。

人と人とのつながりの中で、他者に傷つけられたり、お互いに傷つけ合ったりしている方も相談に来られます。

 

 

人を責めると同時に、自分のことも責めたり、嫌になったりしている方もおられるでしょう。

 

 

人も自分も何もかもが信じられない。

広い世界の中、ひとりぼっちでいるような、そんな気になることもあるでしょう。

 

そんな時って、とても辛いですよね。

 

でも、どんなときでも、決してひとりじゃないことを、心のどこかで、ほんのわずかでも

信じることができるなら、人は生きることができるのだと思います。

 

こんな詩があります。

 

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Every day I listen to my heart

 

ひとりじゃない

 

深い胸の奥で つながってる

 

・・・・

 

夢を失うよりも 悲しいことは

 

自分を信じてあげられないこと

 

愛を学ぶために 孤独があるなら

 

意味のないことなど 起こりはしない

 

・・・・

 

私たちは誰も ひとりじゃない

 

ありのままでずっと 愛されている

 

望むように生きて 輝く未来を

 

いつまでも歌うわ あなたのために

 

 

「Jupiter」より 作詞 吉元由美

 

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 平原綾香さんの大ヒット曲ですから、あなたもきっとご存じですよね。

 

この詩のとおり、人は、どんなときでも、決してひとりではありません。

 

何かの意味があって、この世に生まれ、また今、あなたは生きているのだと思います。

そして、見えないつながりが、人と人とのあいだには必ずあるのです。

 

今、自分が気がつかないだけで、あなたのことを想い、信じ、助けてくれる人もいるのかも知れません。

 

そして、「ひとりぼっち」だと思う心、孤独についても、決して意味のないことでもないのですね。

 

孤独があるから、愛を学ぶことができる。

寂しいから、人とのつながりの温かさを感じることができる。

人の心の痛みが分かり、人に優しくすることができる。

 

そうなんじゃないのかなと思います。

 

何度もこのブログでお話しましたが、「起きることには、意味がある」と思います。

  

生きているうちには、いろいろと辛いこと、悲しいこと、どうしてこんなことが起きるのか!と叫びたくなることもあるものです。

 

でも、どんなときでも、誰が何と言おうと、心ない言葉をぶつけてきても、自分だけは、自分のことを信じてあげてくださいね。

 

どうか自分を見捨てないでください。

 

あなたは、意味がある存在として、この世に生まれ、存在しています。

あなた自身さえ知らない素晴らしい「未見の我」が眠っているのですよ。

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せめて自分だけは、自分のことを。

そして、自分の近くにいる大切な人のことを、信じてあげられるといいですね。

 

※関連のお話です。

 未見の我

 あなたはすでに愛されている

 

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今年の新司法試験ももうすぐですね。

私のころは、毎年母の日が、司法試験の択一試験でした。

こんなに季節のいいころに、「ああ、私はいったい何をしているのだろう?」と毎年、毎年思ったものです(汗)。

 

でも、試験に合格した翌春の桜は、何とも鮮やかに美しく見えましたよ。

心に染みる光景でした。

 

 

司法試験に限らず、この春、就職試験、公務員試験等にがんばっている方、来年、心に染みる桜が見られるように、今はがんばってくださいね。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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平成24年4月7日(土)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

4月になり、新年度になりましたね。

新しい環境で、この春を迎えられた方も多いでしょう。

 

新しい出会いもあったことでしょう。

その人とこれから温かなつながりがもてたらいいですね。

 

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人に嫌われたくない、人に好かれたい。存在を認めて欲しい。

 

 

そんな気持ちって誰にでもあるものです。

 

 

人から好かれたり、慕われたり、認めてもらえると嬉しいですよね。

逆に、人から嫌われたり、けなされたり、存在を無視されると辛く悲しくなります。

 

 

だから、人は人から好かれたいと思い、好かれようとするものです。

 

 

しかし、あまりに、人に好かれようとする意識が強いと、かえって人から距離を置かれてしまうということになりがちです。

 

 

それは、好かれようとするあまり、自分をよく見せようとして、自分のことばかり考えるようになり、

周囲の人は、何となく近づきたくないと思うからかも知れません。

 

 

外見上は、優しい言葉や行動であっても、どこか見返りを期待するような感じを相手は受けとってしまうのですね。

 

「この愛想のよさは、きっと何か魂胆があるに違いない」

「何かを売りつけようとしているに違いない」

だなんて相手に思われると好かれるはずがありません。

 

 

また、自分がどう見られるかに意識を注ぐと、他者が何を考えているのか、何をのぞんでいるのかに、意識が向かなくなってしまいます。

 

自分をよく見せようと意識しすぎて、自分についてのアピール話をすることも、場合によっては、相手を引かせてしまうことでしょう。

 

 

それに、人から好かれようとする意識が強すぎると、人から自分がどう見られているかが気になって、自分らしさを閉じこめて、偽りの自分を演じてしまい、疲れてしまうかも知れません。

 

  

では、人に好かれるためには、どうすればいいのでしょうか?

 

 

人の話をしているのに、犬のことを例えにあげるのは、申し訳ありませんが、私が飼っている小犬のマリの話をさせてください。

 

 

私は、マリのことが大好きなのですが、それは、マリの外見上の可愛らしさだけではなく、マリが、私のことを大好きでいてくれるからです。

 

何の見返りもなく、無条件で、私のことを慕ってくれているからです。

 

 

相手が無条件で好きでいてくれることを感じて、私も大好きなのですね。

 

 

人でも、無条件で大好きに思ってくれる人のことを、大抵嫌いにはなれないはずです。

大切に思ってくれる相手を、大切に思うものです。

 

 

逆に、自分のことを嫌っていたり、ダメだしばかりする人を好きにはなれないものです。

 

 

だから、人に好かれるためには、その人を無条件で好きになるのが、一番なのです。

 

 

「好かれようとするより好きになる」

 

 

それが、結局人に好かれやすくなるのです。

 

 

哲学者の池田晶子さんの本にこのようなくだりがあります。

14歳の中学生に「友愛」についてお話しています。

 

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人に好かれようとするよりも、人を好きになるようにしよう。

こう気持ちを切り換えてごらん。

 

自分に自信がない君も、それだけで何だか自信がわいてくるんじゃないかな。

だって、人に好かれることは、自分じゃどうもできないことだけど、

人を好きになることなら、自分でできることだからね。

 

自分でできることをするのでなければ、やっぱり面白くないじゃないか。

 

 

そういうふうに、好かれようとせずに好きになろうとする。

そういう君は、人目を気にせずに自然にふるまっているはずだから、

結局、人に好かれることになるだろう。

そういう人、その人がその人らしいのが、人には一番魅力的に見えるものなんだ。

 

 

「14歳の君へ」(毎日新聞社)

 

===============================

 

 

人を好きになると、その人に何かをしてあげたいという気持ちが湧き上がってきます。

 

その気持ちを、まっすぐに心をその人に延ばしていくと、その人も温かいものを心に感じることでしょう。

 

 

人を好きになると、その人の役に立ちたい、喜ばせたいと自然に思います。

相手が今何を望んでいるのか、何が困っているのか

何をすれば喜ぶのか、相手を観察して、相手の気持ちを想像していくことになるでしょう。

共感力も高まり、共感することもできるはずです。

 

そして、温かなつながりができていく。

 

 

もちろん、自分が好きになったからと言って、相手も好きになってくれるとは限りません。

ともだちになれるとは限りません。

 

 

それでも、人と温かなつながりを持つためには、

「人から好かれようとするのではなく人を好きになること」

が出発点なのだと思います。

 

 

まだまだですが、私も、自分がどう見られるかから、相手を好きになろうと意識をシフトすることによって、温かなつながりができやすくなったなと実感しています。

 

「好かれようとするより好きになる」

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あなたもよろしければ意識されてみてくださいね!

 

※関連のお話です。

 

優しさ配り 

 

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本編で、人を好きになろうとすることをお勧めしましたが、

どうしても好きになれない人を、無理に好きになる必要はありません。

 

好きになれないのはダメだと思って、自分を責めないで下さいね。

 

嫌いな人は嫌いということで、仕方がないのだと思います。

その気持ちも排除せずに認めてあげてください。

 

その上で、仕事の関係等で、そのような人と付き合わなければならない場合には、嫌いな気持ちは認めた上で、ちょっと脇に置くような感じで、一定の距離を置いて淡々と付き合うのがいいのかなと思います。

 

 

ただ、あなたの個人の尊厳を傷つけるような相手ならば、その関係を断ち切ることも必要です。

 

 

そのような時は一人で悩まないで、信頼できるどなたか弁護士にご相談くださいね。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

はるのゆきだるま3

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以前の日記で、私が子どもの小学1年生教科書から 「はるの ゆきだるま」をご紹介しました。

「はるの ゆきだるま」

「はるの ゆきだるま 2」 

 


もとは石鍋芙佐子さんの絵本なんですね。

 


どこか切なく、でもふんわりと温かいお話にそうように、やさしい絵のすてきな絵本です。

 

ふと どうぶつ達が はるのおみやげを持ってきたときの「ゆきだるまさん」の気持ちを想像してみました。

 


「はるの ゆきだるま」 -子うさぎさん 泣かないで

 

『 ひとりぼっちだった ゆきだるまさん。

どうぶつ達と ともだちになりました。

どうぶつ達に すてきな はる について おしえてもらいました。

 

はるは あたたかくて すてきなもの

はるになったら どうぶつ達が はるのおみやげをもってきてくれるって。
楽しみだなあ。

 

はるのおみやげって 一体どんなものなんだろう。

はるのひかり はるのにおい はるのかぜ お花・・・

 

(原典)

「子うさぎが、ゆきだるまとの やくそくを おもい出したとき、もう、さくらの花は まんかいでした。

「早く 早く、ゆきだるまさんが まって いるよ。」

どうぶつたちは、いそいで 花を つむと、山へ かけのぼりました。

でも、おそすぎました。

どうぶつたちが、ついた とき、ゆきだるまは とけて しまって いました。

 

「ごめんね、ゆきだるまさん。」

 

子うさぎは、なきながら いいました。


みんなは、とけた ゆきの 上に、そっと はるの おみやげを おきました。

(ゆきだるまさん) 

 

子うさぎさん 泣かないで。

 

みんな はるの おみやげをもってきてくれて ありがとう。

 

ぼくのからだは、とけてしまったけれど ぼくは ちゃんとここにいるんだよ。

ぼくのからだは、しろくて 冷たいけれど

子うさぎさん達が はるのことを 教えてくれたから こころはあったかくなったんだよ。

 

それに、子うさぎさん達がとどけてくれる はるのおみやげのことを思うと、

とても嬉しかったんだ。

 

ひとりでも寂しくなかったよ。

 

おひさまの力がつよくなり まわりの空気があたたかくなって

ぼくのからだは 少しづつとけていった。

 

ぼくの冷たいからだが とけていくにつれて ぼくのあたたかいこころは

あたたかい空気や はるのお花と一体になっていった。

 

子うさぎさん

 

どうか泣かないで。

 

子ぎつねさんも 子りすさんも 子ぐまさんも 子だぬきさんも

もう泣かないで。

 

ぼくのために はるの おみやげをもってきてくれて ありがとう。

 

ぼくに はるを 教えてくれて ありがとう。

みんなが いっていたとおり      

                                                                      
はるって ほんとうに すてきなものだったんだね。

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(原典)

いつか、山は すっかり はるでした。

どうぶつたちは、げん気いっぱい 山を かけめぐって あそんで いました。

ゆきだるまのことは、もう、わすれて しまったかのようでした。

 

「あっ、ゆきだるまさんだ。ゆきだるまさんが いる。」

 

ある日、山の上から、子うさぎの 大きなこえが ひびきました。
どうぶつたちは、びっくりして かけより、子うさぎの ゆびさす ほうを 見下ろしました。

 

「わああい、ゆきだるまさんだ。みんな、いって みよう。」

 

子ぐまも 子りすも 子ぎつねも 子だぬきも、子うさぎを せんとうに、山をかけ下りました。

 

でも、それは、あの ゆきだるまでは ありませんでした。
ちょうど ゆきだるまの 立っていた あたりにさいた、たくさんの 白い花でした。

どうぶつたちは、だまったまま いつまでも、その花の ゆきだるまを 見つめていました」

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あなたが、もしもゆきだるまさんだったら、子うさぎさん達が泣いているのを見たら

どんな気持ちだったと思いますか?

 

よろしかったら 少し思いをはせてみてくださいね。 

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平成24年3月18日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

昨日の朝、犬の散歩をしていると赤いネコヤナギをみつけました。

「ネコヤナギ」の花言葉は、「自由」「努力が報われる」だとか。

 

この春、努力が報われた方、よかったですね!

 

残念ながら、この春に結果がでなかった方もこれまでの努力は、けっして無駄ではありません。

がんばったことは、目に見えなくともしっかり心と身体に蓄積されています。

 

そしていつか報われる日がくることでしょう。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

辛くて悲しい出来事があったとき、

そばで一緒に悲しんでくれる人がいることで、悲しみに耐えることができたりします。

 

失恋したとき、試験に落ちたとき、大きな失敗をしてしまったとき

信じていた人から裏切られてしまったとき・・・

 

 

たった一人でもいっしょに悲しんでくれたり、寄り添ってくれる人がいる。

わかってくれる人がいてくれる。共感してくれる人がいる。

 

 

そのことで、どんなに救われることか。

どんなにありがたいことか。

 

あ~こうして、自分のことをわかってくれる人がいるんだ。

 

 

そう思えることがどんなに心の支えになることか・・・。

 

 

寒さに凍える中で、丸くなって温かいスープを飲んだときのような、

身体と心の内側から湧き出てくる温かさを感じます。

 

そして、くじけないで、また歩くことができる。

 

 

私は、おかでさまで妻をはじめとして、いろいろな方に支えられて、

そのような経験を何度もしてきました。

 

 

あなたにも、きっとそんな経験がありますよね。

 

 

野口嘉則さんの「人生は「引き算」で輝く」(サンマーク出版)という本の中で

「共感」について、こんなお話がありました。

 

 

老人が語りかけてきます。

 

 

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共感や感謝は、心と心の触れ合いです。

 

 

心というのは目に見えませんが、

その触れ合いの力たるや素晴らしいものがあるのですよ。

 

 

私自身、何度も経験しましたし、

また、他の人の人生においてもたくさん見てきました。

 

 

人が生きていくうえで、

自分のことをわかってくれる人がいるということが、

どれだけ強い心の支えになるかということを。

 

自分の悲しみや辛さに共感してもらえたとき、

どれだけ慰められるかということを。

 

自分の喜びや幸せに共感してもらえたとき、

どれだけうれしさが増すかということを。

 

 

共感は自分と相手の命をつなぐのです。

そして、命と命が響き合う。

 

 

 

同じく感謝によっても、人と人はつながり、

命が響き合うのです。

 

私の人生を振り返っても、

家族から感謝の言葉をかけられることで、

どれだけ自尊心を満たすことができたか。

 

自分の仕事がお客さんや取引先から感謝されることで、

どれだけ喜びを感じることができたか。

 

ちょっとした親切をしたときに「ありがとう」と笑顔で言われて、

どれだけ温かい気持ちになれたか。

 

 

人間というのは、

誰かの心と自分の心とがつながったとき、

誰かの命と自分の命が響き合ったとき、

幸せを感じるものなのです。

 

だから私は、私にできる最大の恩返しとして、

心から共感と感謝をしていくことにしたのです。

 

 

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老人は、誰かからわかってもらえること、感謝されること、

そのことがどんなに心の支えになるのか、どんなに嬉しいことなのか、

を知っているからこそ、縁あって目の前にあらわれた誰かのことを

「わかろうとすること」「ありがとうと感謝すること」で、恩返しをしようというのですね。

 

 

私も「共感」と「感謝」が幸せに生きていく上でとても大切なことだと実感しています。

 

 

共感することで、その人との温かなつながりが生まれてきます。

その温かなつながりが、内側から自分自身の心を温めていくのです。

 

 

では共感する力を高めていくためには、どうすればいいのでしょうか?

 

 

私は、人に共感することができるためには、それまでの自分自身の経験をふまえながら、

その人の気持ちを想像することがポイントになってくるのだろうと思います。

 

 

つまり「経験」と「想像力」です。

 

 

そして、経験の中で、辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、

そんな辛い経験こそが、今目の前で、辛く悲しい思いをしている人の気持ちをわかり、

共感できる武器になっていくのですね。

 

 

だから、これまでの人生で、辛く悲しい経験をされた方、

そんな方ほど、同じように辛く悲しい経験をされている方に共感できる、

これからもっと人と温かくつながることができるとも言えるのですよ。

 

 

そうだとすると、今、もしあなたが辛く悲しい経験をされているとしたら、その経験は、

将来、あなたが出会い、あなたと同じように辛く悲しい経験をされている人と

温かくつながるために必要な出来事だったと捉えることができるのかも知れません。

 

 

あなたの辛い経験は、決してただ辛いだけのものではありません。

意味のない経験でも、無駄な経験でもないのです。

 

 

辛い経験を、辛い経験のままにせずに、これからに活かしていくこと、

人と温かくつながる武器にすること、幸せに生きる糧にすることだってできるのですよ。

 

 

幸せに生きること。

 

それは、これまでの経験をすべて活かしながら、出会った人に共感と感謝を

伝えながら、縁あって出会った誰かの心と温かなつながりをもつこと。

 

今、そういうことなのかなと改めて思っています。

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幸せに生きたい私は、これからもっと共感力を高めて、

縁あって出会った誰かの「たった一人でもわかってくれる人」になれたら素敵だなと思っています。

 

※関連のお話です。

 

わかってほしかった

 

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努力と成果の関係について「成功の二次曲線」というお話があります。

 

 

「努力に応じて成果は、比例で上昇するのではない。

当初は、なかなか変化があらわれずに、上達しているのかよく分からない。

努力が無駄になっているようにさえに思える。

ところが、ある点を境にして、ぐんぐん上達しできるようになる。

二次曲線のように上昇していく。」

 

というお話です。

 

 

がんばってもがんばってもなかなか成果が見えない時は、

もしかするとその「ある点」のほんの少し手前なのかも知れません。

 

 

何かを目指してがんばったことは、もし今は目に見えた成果に現れないとしても、

しっかり自分の中に蓄積されているのです。

 

決して無駄なんかではないのですよ。

 

なかなか難しいことですが、投げやりになることなく、

明日へとつながる種を蒔き続けていけるといいですね。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

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平成24年3月4日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

3月に入り、ひな祭りも終わりましたね。

雪はまだ残っていますが、日の光の強さはまぶしいくらいに強くなりました。

 

この光の中で、青い空を眺めていると思い出します。

 

あの日から、もうすぐ1年になるのですね。

 

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さて、民事調停についてのお話の冒頭で、調停委員が当事者から信頼されることが大切ですとお話しました。

 

『心が開けば、言葉は相手の心に届きます。心が開かないうちに、いくらいい言葉を発したとしても、相手の心には届かないものです。理屈の正しさも重要ですが、「この人がそう言っているのなら、間違いないだろう」と信頼してもらえると、解決可能性はぐんと高くなるものです。』

 

 

「何を言うかより、誰が言うか」なのですね。

 

 

心を開いてもらうこと、信頼してもらうことは、調停の場面のみならず、人と人とのコミュニケーションの場面全般においても重要なことです。

 

 

人と出会った当初から「あ、この人感じいいな」と思ってもらえたなら、話は伝わりやすくなるものです。

逆に、「何だこの人、感じ悪いな」と悪い印象をもたれると、いくら話の内容がよくても、感情でシャットアウトされて、言葉が相手には伝わりません。

 

調停で感情的対立が厳しい場合に、「相手が出した解決案をのむのは嫌だが、裁判所が出した案なら受け入れてもいい」と思っている方も結構おられます。

 

「誰が言うか」なのですね。

 

 

弁護士として法律相談を受けているとき、調停官として当事者の方から事情を伺っているとき、多くの方は、その肩書への信頼もあって、私の話を聴いてくれます。

 

しかし、それに甘んじて、上から目線の偉そうな態度をしてしまうと信頼は一気に崩れてしまいかねません。そうすると言葉は届きません。

 

 

私は、人に教えることが好きで、それもあって法教育をやっていますし、機会があれば私がもっている知識や経験、ものの見方や考え方(まだまだではありますが・・・)を多くの方に伝えていきたいと思っています。

 

 

しかし、私も含めて、教える立場にある者が、陥りやすいことで、気をつけなければならないことがあります。

 

 

また理屈で相手を説得しようとする弁護士にとって、心に留めておかなければならないことでもあります。

  

それは、正論を押し付けないこと、正しさで人を裁かないこと。

 

 

山田ズーニーさんの『あなたの話はなぜ「通じない」のか』(ちくま文庫)の中で、このようなお話があります。

 

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「正論を言うとなぜ孤立するのか?」

 

 

正論は強い、正論には反論できない、正論は人を支配し、傷つける。

人に何か正しいことを教えようとするなら、「どういう関係性の中で言うか?」を考えぬくことだ。

 

それは、正論を言うとき、自分の目線は、必ず相手より高くなっているからだ。

 

教えようとする人間を、好きにはなれない。

相手の目線が自分より高いからだ。そこから見下ろされるからだ。

そして、相手の指摘が、はずれていれば、それくらいわかっている、バカにするなと腹が立ち、相手の指摘があたっていれば、自分の非が明らかになり、いっそう腹が立つ。

 

 

相手は、(正論を言う)あなたを「自分を傷つける人間だ」と警戒する。

相手は、そういう人間からの言葉を受け入れない。

 

だから、あなたの言う内容が、どんなに正しく利益になることでも、なかなかうまくことが運ばないのだ。

 

 

言葉は、関係性の中で、相手の感情に届く。

 

 

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教えたがりの私にとって、「痛い」お話でした。

 

自分は、上から目線になっていなかったか?傲慢になっていなかったか?

 

 

また、何かを人に伝えたい、教えたいという想いが強い時ほど、上から目線にならないように気をつけなければならないことだと思いました。

 

 

「これが正しいんだ、これが素晴らしいんだ、何とか伝えたい!」

 

 

そう熱く思って、誰かに伝えようとするとき、つい押しつけがましくなったり、説教くさくなりがちです。

そんなことをすると、かえって相手の心は閉じてしまうものです。

  

結局、思いが空回りしてしまって、自分が伝えたいことは、相手に伝わりません。

 

 

何かを誰かに伝えたいのであれば、その人との関係性を構築し、相手を個人として尊重し、対等の関係性を意識し、上から目線にならないように、気をつけなければいけないのですね。

 

相手を一人の個人として尊重することが、人に何かを伝えようとする際にも、基盤となります。

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なかなか難しいことですが、私はまだまだですが、私には、伝えたいものがありますから、人の心に届く伝え方を、マスターできるようにがんばっていきたいと思います。

 

※関連のお話です。

 

自分の気持ちは、相手には分からないもの

 

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妻の相談には、アドバイスをするのではなく、「そんなことがあったの。それは大変だったね・・・。」とただただ話を聴かなければなりません。

 

これは我ながら見事なアドバイスをした後、「ああ、お父さんに話すんじゃなかった!」と妻に怒られた私の鉄則です(笑)。

 

 

でも、ただ話を聴くことって、なかなか難しいですよね。

ついつい家族の気安さもあって話を途中で遮って、「ああ、それは、こうすればいいじゃないの」と言ってしまいます。

 

しかしそれは話を聴いてもらえなかったという不満を持たれることになりがちです。

 

 

法律相談では、相談者の方は、基本的に専門家のアドバイスを求めて相談に来られておりますから、アドバイスを基本とするのですが、相談者の方に話をよく聴いて欲しいという気持ちがあることもあり、そのような気持ちをくみとることも大切です。

 

他方で、家族や親しい友達の場合には、アドバイスがほしいのではなく、共感して欲しい、ただただ話を聴いてもらいたいということが多いのでしょう。

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 それなのに、偉そうにアドバイスをしてしまうと、エラいことになってしまいます。

 

お互いに気をつけましょう(笑)。

 

それでは、また。

 「民主主義と立憲主義のはなし」

                                                                 あやめ法律事務所

                                                                    弁護士 神坪浩喜

 

第1時限目 民主主義のはなし

 

皆さん、こんにちは。今日は、法と民主主義の話をします。

 

「法」「民主主義」、そんな言葉を聞くだけで、分からない、難しそう、堅苦しい勘弁して、なんて思ってしまう人も多いかも知れませんね。

 

法律には、どんなものがあるか知っている?

 

キミ達も人の物を盗んだら、警察に捕まって、裁判にかけられて処罰される、刑務所に行くというのは知っているよね。

 

これは、国の法律で「人の物を盗んだら、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」と定められているからなんだ。刑法のことだね。

 

刑法は、いろいろな犯罪と刑罰を定めている法律です。人を怪我させたり、人を殺したりすると、刑務所に行くことになりますよ、ときめています。

 

どうして、こんなきまりがあるのだろう?もし、刑法がないとどうなるだろう?

 

人を怪我させたり、人の物を盗んだりしても刑務所に行かなくてもよい、処罰されないとしたら、どうなるだろう?

そんな法律がなくても、自分は人を怪我させたり、盗んだりはしないよ、とそう思うかも知れないね。

 

うん、確かに、キミ達のように、人として、してはいいこといけないことが分かって、悪いことをしない人ばかりなら、刑法はいらないかも知れない。

 

でも、世の中にはいろいろな人がある。残念ながら、わがままで自分さえよければいい、他人のことを考えない悪い人も中にはいる。もし、刑法がなかったら・・・

 

どうだろう。きっと今よりもっと人の物を盗んでしまう、人が増えるだろう。別に、人の物を盗んでも警察に捕まらないんだし、盗っちゃえ、なんて安易に盗ってしまう人がいるかも知れないからね。盗まれた人が困るからと思うのではなくて、盗むと警察に捕まるから、自分は盗まないという人も残念だけど結構いると思う。

 

自分の物、特に大切な物が、他人が勝手に持っていくのって嫌だよね。人が盗るなら、じゃあ自分も誰かから、物を盗ってしまおうなんて考えるようになるかも知れない。そうすると、そこでは盗ったり、盗られたりという世界になって、結局力の強い悪い奴がたくさん物を盗ったりして、無茶苦茶な世界になりそうだよね。それは、困る。安心して暮らせない。

 

そこで、刑法は、みんなが安心して暮らせるようにと、「特に人に迷惑をかけてしまうことをした人は、これこれの処罰を受ける」例えば「人の物を盗んだ者は、懲役10以下か50万円以下の罰金に処する」と刑法は定めた。

 

こういった法律があって、実際に、この法律に違反した人、人の物を盗った人が警察に捕まり処罰されることで、多くの人は、「人の物を盗ると警察に捕まるし、盗らないようにしよう」と、人の物が欲しくなっても、盗ったりしないで、自分の行動をコントロールするんだね。これで、人の物を盗る人は、少なくなるでしょう。大抵の人は、警察に逮捕され、刑務所に行くなんて、嫌だからね。

 

法律というのは、人の自由を制限しているといえる。人の物を勝手に盗りたい人にとっては「盗む自由」を制限されているとも言える。これは、盗まれる人のこと、物を持っている人の所有権(この物は私のものという権利)を保護しようと考えているからなんだ。自由があるといっても、人に迷惑をかけていいわけではない。人に迷惑をかける自由は保護されないのです。制限されることになります。

 

法律は、人同士の自由と自由とがぶつかり合ったとき、調整をしているものといえます。

 

僕は、大きな声で歌を歌いたいんだ、大音響でエレキギターを弾きたいんだ、といって、みんなが寝静まった真夜中の住宅街で、大声で歌ったり、大音響でエレキギターを弾いちゃいけないよね。寝ている人の迷惑になる。そんなのダメだよと法律は定めている。

 

法律は、人と人との自由や権利を調整して、社会秩序をたもっているんだね。お互いに安全に、快適に暮らせるようにしている。

 

では、そんな法律は、どうやって作られるのだろう?どのように作られるのがいいのだろう?

 

特定の人、例えば王様や将軍が法律を決めるのってどうだろう? 

 

昔は、王様や将軍といった特定の人が、法律を作っていた時代があったんだ。

昔、こんな感じの法律があったんだよ。

 

・キリスト教を信じてはならない。信じた者は処罰する

・王様の政治を批判してはならない。批判した者は処罰する。

 

どう思う、こんな法律?

 

王様や将軍といった特定の人がものごと、法律を決めるのは問題があるというのは、多分キミ達にも感覚的に分かると思う。

 

どうして法律を特定の人が決めるといけないのだろう?

 

その王様が、自分の贅沢だけを考える悪い王様だったら、自分が贅沢したいので、税金をたくさんとるという法律を作るかも知れない。また、わがままな王様なら、国民から自分がやっていることを批判されたら嫌だということで、国の政治を批判する人をかたっぱしから刑務所に入れてしまえ!なんていう法律をつくってしまうかも知れない。

 

その王様が、結構いい人で、名君で、国民のためを思って法律を作ろうとしたらどうだろう。

 

例えば孔子(論語を書いた昔の中国の思想家)のような立派な人が、王様になって国を治めればいいのだろうか?

 

でも、いくら立派な王様であっても、王様が、国民それぞれがどんなことを考えているのか、何を望んでいるかはよく分からないだろう。王様が、国民のためによかれと思ってやったことでも、実際には国民にとって迷惑なこともあるだろう。国民にとっては余計なお世話というものもあるだろう。ピントがずれた政治を行ってしまうかもしれない。

 

それに、王様がいい人か悪い人かどうかで変わってしまうのって、人次第ということで、怖いよね。どんな王様になるかで、国民の生活も変わってきてしまう。そしてどんな王様になるかは、国民はどうすることもできない。歴史を勉強してくると分かるけど、その時の王様や将軍の考え方や好みなんかで、180度政治が変わってくることもある。

 

では、国のきまりは、王様とか特定の人が決めるのではなくて、どのようにして決めるのがいいのだろうか? 

ところで、キミ達が、クラスで、何かを決める時って、みんなどうしている?例えば、文化祭のクラスの出し物ってどうやって決めている?

クラスの誰か、例えば学級委員とかが、適当に決めている?そんなことはないよね。みんなで話し合って決めていると思う。みんなでいろいろと意見を出して、ある人の意見がみんないいと思えばそれに決まる。

 

もし、みんないろいろと話し合っても、意見が分かれることがあれば、どうやって決めている?

 

じゃんけん?くじ引き?それもあるかも知れない。

でも、きっと手をあげてもらったりして、投票してもらったりして、数が多い方に決めることが多いよね。黒板に「正」の字を書いたりして。

つまり多数決で決める。それが、話し合ったことが生かされると思うから。いろいろ話し合った後に、くじ引きで決めるなんて、話し合った意味がないよね。

 

話し合いによって、いろいろな意見がでて、みんなの多くが、それがいいというのになるのが、納得がいくだろう。 たいてい、みんなにとってそれがいい決まりになることが多いだろう。

 

では、どうして、キミ達は、みんなで話し合って決めているのかな?

 

それは、自分たちのことだから。自分たちに関することは、自分たち以外の誰かに決められたくないから。自分がそのグループにいる以上、自分の意見も言いたいから。

 

自分たちが従わなければならないルールならば、自分の意見も聞いてよと当然思うだろう。自分が知らないところで、勝手に決められたくないだろう。押しつけられたくないだろう。

勝手に決められたルールなんて、とルールを守る気にならないかも知れないね。 

 

そして、みんなそんな風に思っていたら、決めたルールを守らない人が多くなって、ルールが骨抜きになってしまうだろう。

 

誰だって、自分の全く手の届かないところで決められたルールを押しつけられるのって嫌だよね。納得いかないよね。

1組のクラスの出し物を2組が決めるなんておかしいよね。

 

「自分たちのことは、自分たちで決める。」

ルールをつくる人たちとルールを守る人が一致していることが大切なんだ。

 

これを難しい言葉でいうと「自己統治(じことうち)」なんていう。

 

そして、自分たちで決めたルールならば、そのルールを大切にして、守ろうという気になるだろう。

それに、ある人が考えるより、みんなで意見を出し合って、話し合っていった方が、普通は、みんなにとっていいきまりになることも多いだろう。

 

キミが思いつかないことを別の友達が発言することもあるだろう。友達の発言を聞いていて、キミがいい案を思いつくこともあるだろう。

 

だから、みんなで意見を出し合いながら、話し合って決めた方がいいんだね。

 

いくら王様が頭のいい人であったとしても、みんなで力をあわせて考えたことには、及ばないことがほとんどだろう。

 

国のあり方、法律も同じこと。

 

・自分たちのルールは、ルールに従う自分たちで決めるべきということ

・みんなで意見を出し合いながら話し合った方が、いいルールができやすいこと

・自分たちがきめたルールだからこそ、そのルールを尊重し、守ろうとすること

 

だから、「みんなのことは、みんなが話し合って決める」ことにしたんだ。 

 

これを、「民主主義」という。そして、世界の多くの国では、この「民主主義」の考え方を基本にして、国の政治のあり方を決めている。

それは、民主主義が、ものごとの決め方として、現在考え得る最良の決め方として、受けとめられているからなんだ。

 

そして、国の政治以外でも、キミ達の普段の生活の中ででも、クラスとかの人の集まりに入っている以上、この民主主義がベースになっていると思う。

 

でも、国でも、身近な集まりでも、「民主主義」、みんながよく話し合って、ものごとを決めることが、本当に実践されているかどうかは、いろいろあって、形だけの民主主義ということが結構多かったりするんだ。

 

例えば、話し合いもせずに、他の意見もろくにきかずに、すぐに多数決で決めてしまうとかいうのは、「民主主義」を実践しているとは言えないだろう。判断のもとになる必要な情報を共有しないままで、決めてしまうというのも、やはり「民主主義」になっていない。

 

「形だけの民主主義」ではなく、「本当の民主主義」を実践するためには、単に多数決で決めさえすればいいという訳ではなくて、判断のための必要な情報を共有し、一人一人が意見を言える機会があって、みんなでよく話し合いをするという、みんなが努力する必要があるんだね。

 

ちょっと、今度のクラス会、私達は「本当の民主主義」でやっているかな?と、そんな目で見てごらん

 

第2時限目 民主主義のはなし2-安易に多数決で決めないこと-

 

さて前回は、集団がある以上、個人と個人の自由を調整するために、みんなが安心して便利に暮らせるようにルール、法律がきめられる必要があることをお話しました。

 

そして、そのルールや法律は、王様といった特定の人が決めるのではなくて、みんなで話し合って決めるのがいいこと、そのような決め方を「民主主義」ということをお話しました。

 

もともと、ルールや法律を決めたのって、何のためだった?

王様が、好きなようの国を動かすため?自分が贅沢をするため?

 

違うよね。 

 

確かに昔は、国や王様や特定の集団のために、法律を決めて、国の政治を批判する国民を処罰したり、税金をしぼりとったりということもあった。

 

でも今は、そんな考え方は否定される。

 

では、何のためにルールや法律はあるのだろうか?

 

それは、一人ひとりの幸せの追求が目的となっている。

 

人が集まったときに、必ず起こってくる自由と自由の衝突の調整をはかって、一人ひとりが安全に快適に暮らせるようにしくことを目的にしているんだ。

 

国や特定の団体のためではなく、あくまで、個人の幸せが念頭にある(実は、このことが忘れがちになってしまうのだけれど、憲法は、そのことをはっきり規定している)。

 

僕は、ここで大声で歌いたいんだ!と思っていても、仮にそこが図書館だったら、実際にそんなことをしたら、静かに本を読んでいる人たちにとってはえらい迷惑だよね。図書館で歌うことは禁止されている。

 

「図書館では、静かにすること」というきまりは、図書館は、本を読む場所なんだから、図書館で静かに本を読む人の利益を守っている。歌を歌うような場所ではないから、歌を歌う自由はそこでは保護されない。制限される。

 

キミ達は、タバコは吸ってはいないと思うけど(吸ってはいけないよ!)、大人では、タバコが好きな人とタバコの煙が嫌いな人が別れている。

 

タバコの好きな人は、吸いたいときに一服したい。でも、そこにタバコの煙が嫌いな人がいたら、吸ってもらいたくない。煙がきたら、露骨に嫌な顔をしたり、手で煙を払ったりする人もいるだろう。

 

場所によっては、ここは禁煙ですとか、タバコはこの場所で吸ってくださいと喫煙室が設けられていたりするよね。ハンバーガーショップやファミレスでも、喫煙できる場所と、禁煙の場所とかが別れていると思う。

 

吸いたい人とタバコの煙が嫌な人との自由が、ここでは禁煙とか、ここでタバコが吸えるのは、この部屋だけというようなきまりで、調整されているんだね。

 

こんなことから、ルールは必要になってくるのだけれども、それはあくまで、吸いたい人個人の自由と煙が嫌な人個人の調整のためなんだ。

 

では、民主主義の決め方ってどういうことなんだろう?個人の幸せを意識した決め方ってどうすればいいのだろう?

 

キミは「民主主義=多数決」って思っているかも知れないね。 

でも、多数決で決めさえすれば、民主主義といえるのかな?

 

個人の幸せにとって多数決にさえしておけば、それがよい決め方といえるのかな?

 

ある会社で、喫煙グループの人達(タバコを自由に吸いたい!)と嫌煙グループの人達(タバコの煙が大嫌いだ)とに別れました。嫌煙グループが、煙が嫌いだから、社内全面禁煙という社内規則を作ろうと言い出し、両グループが話し合うことにしました。

 

ここで、仮に喫煙グループが多数で、俺たちが多数なんだから、煙ぐらいがまんしてよ、というような感じでいきなり多数決で、「これまでどおり自由にタバコを吸ってもよい。」と決めるのはどうかな?

 

逆に、嫌煙グループが多数をしめていて、「これから、社内、全面禁煙です!タバコを社内で吸ったら罰金10万円!」なんて、数に任せて決めてしまったらどうかな?

 

民主主義のベースには確かに多数決があるけれど、いきなり多数決、安易に多数決というのは本当の民主主義になっていない。集団に所属する一人ひとりを大切にする決め方ではない。

 

前回の授業で、物事の決め方について、王様とか特定の人が決めるのではなくて、どうして民主主義がいいのか3つ理由をいいました。憶えていますか?

 

大切なことなので繰り返します。

・自分たちのルールは、ルールに従う自分たちで決めるべきということ

・みんなで意見を出し合いながら話し合った方が、いいルールができやすいこと

・自分たちがきめたルールだからこそ、そのルールを尊重し、守ろうとすること

でしたね。

 

もし、民主主義って多数決で決めればいいんでしょ、という感じで、いきなり多数決で決めたりするということは、少数派の存在を無視して「みんなで話し合って決める」いうことにはならないし、みんなで知恵をしぼって話し合えば、本当は多数派にとっても少数派にとってもいい案があるかもしれないのに、でてこない。

 

そして、少数派にとっては、多数派に無理矢理押しつけられた感じがして、「そんなルールなんて、守ってなんかやるものか!」なんてグレて決められたルールを無視したりするかも知れない。

 

そして、そんな決め方をしていると、そこには人と人との間に信頼関係はなくなって、ギスギスしたような関係になって、結局、みんなにとって住みにくい居心地が悪い集団になってしまう。

 

多数派が少数派を縛る、考えを押しつけるというような感じになってしまうかも知れないね。

それって、王様がルールを決めるのと結局同じことだよね。たいして変わらない。 

 

王様が縛るのではなくて、王様に代わって多数派が少数派を縛る。

 

「安易に多数決」では、少数派にとってみれば、「自分たちのことを自分たちが決める」こと、自己統治になっていないことになる。だって、自分たちの意見は、全然反映されないのだから。

 

それって、民主主義じゃないよね。一人ひとりが幸せになるようにルールを決めていることにはならないよね。

 

本当の民主主義といえるためには、よく話し合うということ、特に多数派の人達は少数派の意見に耳を傾けるという態度が大切になってくるんだ。

 

多数派の人達は、少数派の人達のことがよく分からないで、ついつい少数派の人達の意見を「わがままだ」「ひとりよがりだ」だなんて考えてしまって、よく意見も聞かずに押しつけてしまいがちになるからね。

 

安易な多数決は、決して本当の民主主義ではないんだ。

第3時限目 憲法は、国家を縛る?-立憲主義のはなし1-

 

前回まで「民主主義のはなし」をお伝えしてきました。一人の人や特定の団体が権力を握って、物事を決めるのではなくて、みんなでよく話し合って決めた方がいいということでした。

 

何のためにいいのか、それは個人の幸せにとっていいという意味です。

 

ところで、権力って何でしょう?権力って何のためにあるのでしょう。

 

これは、ルールやきまり、法律が何のためにあるのかとつながってきます。

 

ルールやきまり、法律は、何のためにあったのでしょうか?例えば、前にはなした刑法で、人の物を盗んだら懲役10年以下の刑に処するという規定は何のためにあったのでしょうか?

 

一人一人の安全をまもったり、安心してくらせるようにということでしたね。

個人の幸せにつながることですよね。

 

ルールやきまり、法律を強制的に守らせる力、それが「権力」ということになります。

人の物を盗まないように、盗んだ人を裁判にかけて、法律が定めた処罰をあたえます。

 

盗んだ本人が、「そんなの嫌だ!刑務所なんか行きたくない!」と叫んでも、権力は、無理矢理逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れたりします。

 

他にも、自分は、税金を払いたくないと思っていても、法律上税金を払う義務がある場合には、法律の定めに従って、権力は、税金を強制的にとっていきます。

 

そういった強制的にする力があるからこそ、一人ひとりの安全を守ったり、必要な道路や学校や病院をつくったりすることができるわけです。

 

もし、強制力がなければ、法律には「人の物を盗むのはいけない」と書いていても、盗んだ人を処罰することはできなくて、やはり盗むことが多い世界になるでしょう。

 

頑張って働いてお金をためて、欲しい物をようやく買ったのに、それが盗まれるなんて嫌だよね。がっくりするよね。人は弱いものだから、じゃあ別の人の物を盗ってやろうか、自分も盗られたんだしとそんな風に思うかもしれない。社会が混乱してしまう。

 

もし、税金が強制的にとれなかったら、多くの人は、できれば自分の税金はあまり払いたくないと思うだろうから、必要な税収が確保できず、学校や病院、道路といった公共の施設をつくる費用や警察官や消防士、役所で働く人々(公務員)の給料も払えなくなって、学校や病院、必要な道路もつくれず、安全が確保できなかったり、大変不便な生活を強いられることになるだろう。

 

だから、国家に対して、権力が与えられている。国家は権力を持っている。時に、強制的に国民に何かをさせたり、禁止したりする力があるんだ。国家が、国民を強制的に従わせる力を「公権力」といいます。

 

とても強い、そして特別な力が国家にはあるんだね。

 

社会の秩序を確保すること、他の人を害することや迷惑になることをやめさせること、国が国民に対して必要なサービスを実施するために必要なお金を確保するために税金をとること、それは必要で、とても大切なことです。

 

でも、権力の使い方が間違っていたり、度が過ぎていたらどうでしょう。

 

権力を実際につかうのは、神様ではなくて、ロボットでもなくて、個々の生身の人間です。総理大臣も、国会議員も、警察官も、消防士も、裁判官も、税務署の職員も人間です。

 

時に間違ったり、度が過ぎたりしてしまうことってあるかもしれません。人間なんですから。完璧な人間なんていないのですから。

 

強力な力を持つ人が、間違っていたり、度が過ぎていたら、どんなことになるでしょうか。

強い力ですから、間違ったりすると、とても怖いことになります。

 

警察が、きちんと犯罪を犯した人を捕まえてくれるから、国民は安心して暮らせます。

でも、警察官が間違って逮捕して、検察官も間違って起訴して(裁判にかけて)、裁判官も間違って有罪判決をかけば、その人は、本当は何も悪いことはしていないのに、強制的に刑務所に入れられることもあるのです。(怖いことですが、実際に、これまでそんなことが、ありました。)

 

そして権力には、その強大な力とともに、加え独特な性質があるような気がします。

 

まず、権力をもつ人は、自分のやっていることをあれこれ批判されるのは、苦手です。自分のやっていることは「正義のため」で間違いはないと思いがちになります。

 

できれば、批判されたくない。自分のやっていることに素直に従順に従って欲しいと考えるようです。そして、批判する人を排除したくなるようです。

 

「国の政治を批判してはならない、批判した者は処罰する。」

 

こんな法律ってどう思います?おかしいですよね。 

 

きっと、冷静なときには多くの人がおかしいと思うでしょう。でも、実際、過去にはこれと同じような法律があったのです。ナチスドイツ・ヒトラーもそうですし、かつて戦争につきすすんだ日本でもそんな時代がありました。今現在でも世界には、同じような法律があり、国民が、国の政治を自由に批判することができない国もあります。

 

権力が暴走してしまって、独裁政治になっている国では、言論の自由が否定されます。

 

そして権力は、大きくなろう、強くなろうという性質があります。国民を支配・コントールする力をもっとつけようという傾向があるような気がします。織田信長もチンギス・ハンも領土を拡大しようとしました。強くなろうとしました。国内では権力者に都合のいい法律をつくって、国民を統制しがちになります。

 

権力は、一定の思想や道徳と結びつき、それを国民に強制する傾向があります。そして、異質の考えや少数派の思想を排除しがちです。権力にとって、異質の考え方の人がいると統治しにくくなりますから、みんな同じ考え方であってくれた方が統治しやすくて望ましい。

 

それから、人が権力の場に長くとどまっていると、権力者自身の権力保持や拡大に向かって、国民個人の権利自由をないがしろになりがちだということです。そして、国あっての個人なんだ、安全が守られるには個人は我慢しなければならないとかといって、国(権力を持つ者)や公を強調し、個人は犠牲になることをいいがちになる。

 

そして、権力は、間違ったとしても、間違いを認めません。認めたがりません。何か間違ったとき行き過ぎたときに、それを認め、反省して、自分の力で修正するということは、なかなか難しいようです。別の第三者からのチェックはどうしても必要だと思います。

 

歴史を眺めてみて、そして弁護士になってからの刑事弁護等の体験からすると、権力にはそのような傾向、性質が本来的にあるような気がしています。

 

国家=権力は、一人ひとりの国民にとって、大切なもの、必要なものですが、歴史から導かれる本来的な性質から、時に暴走し、間違いを起こし、そしてそうなってしまうと強大な力があるがために取り返しのつかない痛みを国民にもたらすことになります。

 

そしてかつて、国家=権力は暴走していまい、権力にとって気に入らない人を排除し、ひいては戦争につきすすみ、多くの人が大切な命、自由、財産を失うことになりました。

 

人々は、二度とこんな悲しい目にあいたくないと思いました。

二度とこんなことにならないようにしたいと思いました。 

 

そんなことにならないように、憲法を定め、国家=権力に縛り(しばり)をかけています。

権力が、暴走して、国民の権利自由を踏みにじることがないよう権力を分解し、国民がコントールできる仕組みをつくりました。

 

憲法は、「国家=権力を縛るもの」

 

おそらく中学生の皆さんにとっては、初めて聞く言葉だと思います。

 

あれ?憲法って、法律で一番えらくて、国民が守るべきこと、道徳みたいな、何か大雑把なことが書かれているんじゃないの?

 

そう思っていませんでしたか?いやいや、実は私自身、大学で憲法を学ぶ前は、そう思っていました。それまで、日本国憲法の三原則は何?の穴埋め問題や、三権分立がどうのこうのとはか知っていましたが・・・

 

でも、憲法は、国民を縛ったり、ある行動を要求したりするのではなく、国家=権力を縛るものということが、実は憲法を理解する上での「キモ」なんですよ!

 

時に、間違え、行き過ぎてしまう国家=権力におまかせにするのではなく、放っておくのではなく、国民をそれと対峙させて、権力に縛りをかけること、対決させ、コントロールできるようにしておくことが、憲法の本質なんですよ。

 

私は、憲法は、国民の権利自由を確保するために、国家=権力を縛る、制限する、コントールするものだということをはじめて知って、「えっ!そうなの!」と驚きました。

 

憲法って、国に国民の大切な自由や権利を守るよう、国家に向けられたもの。国家に守らせようとするものなのか!と。

 

そして、この憲法の意味を知って、日本国憲法を眺めてみると、憲法というのは、権力の怖さ、個人の尊厳を踏みにじってしまった過去の失敗に、ほとほと懲りまくり、深く学び、それを理性でくい止めようとする世界や日本の人々の「苦心」や「決意」が見えてきて、感動しました。

 

この憲法で国家を縛るという考え方を「立憲主義」(りっけんしゅぎ)といいます。

 

ちょっと堅苦しそうなとっつきにくそうな言葉ですが、これはとても大切な考え方です。 

では立憲主義は、前に話した民主主義とどのような関係にたつのでしょうか?

 

憲法の条文で立憲主義の考え方はどのように反映されているでしょうか?

 

よろしかったら少し考えてみてくださいね。

 

 

第4時限目 民主主義と立憲主義2-表現の自由がない世界

 

クラス会を題材にして、多数決で決めていけないこともあるんだよ、というお話をしました。

 

では、スケールを大きくして、国の場合、国会の場合はどうでしょう。

国会では、法律は国会議員の多数決によって決められていますが、多数決で決めるのなら、どんな法律であっても定めてもいいのでしょうか。

 

例えば、こんな法律はどうでしょうか?

 

「国の政治を批判した人は刑務所に入れる」

 

こんな法律を、みんなによって選ばれた代表者(国会議員)が多数決で決めてよいでしょうか、多数決でも決めてはいけないことでしょうか?

 

国会議員は、国民の選挙で選ばれた代表者ですから、その人達が、話し合って多数決で決めることなら、それが国民の意思じゃないの、国民の多数にそうものだから、何でも法律で決めていいんじゃないの?

 

そう思う人もいるかも知れませんね。

 

王様や将軍のような特定の人が、勝手に決めた法律は問題だけど、国民の選挙によって選ばれた人なら、自分たちが選んだ人が、話し合って多数決で決める以上は、問題ないんじゃないの「正しい」んじゃないの。それが民主主義じゃないの?

 

総理大臣や、政府の人が

「私達の政権運営を批判する人がいる。私達がやっている政治は、国民国家のためにやっているのに、正しいのに、それを邪魔するのはけしからん。私達の政治を批判する人は、国家・国民の利益を損なう人でもあるから、処罰して、批判させないようにしよう。そうすれば、正しく美しい政治が円滑にすすむ。」

 

なんて考えて、こんな法律を国会で作ろうとしています。国会では、総理大臣の政治に賛同し、「総理の考える政治の流れを止めていけない。」「反対派は、邪魔者だ。」「政治を批判するような少数派は、つべこべ言わず、政府の考えに従っていればいいのだ。」と考えている国会議員が多数でした。

 

多数決でどんな法律も決められるのなら、こんな法案も成立してしまうかも知れませんね。

 

どうでしょう?こんな法律をつくってもいいでしょうか?

 

まずいですよね。困りますよね。

 

国の政治を批判することができなくなります。表現することの自由が奪われることになります。怖くて言いたいことが言えなくなります。監視の目を気にして、冗談も言えなくなります。

 

「表現の自由」は、憲法の世界では、とても重要な自由、大切な基本的人権とされています。

 

政治を批判することができない、政治を批判的に論じることができない世界って、どんな世界でしょう。国家がやることに批判ができず、従順に従い、褒め称えるしかない世界ってどんな世界でしょう。

 

「それって、おかしいんじゃない?」って声を出すことができない世界。

「私は、政府のやり方より、こうした方がいい。」と言えない世界。

一体どんな世界なんでしょう。人々はどんな暮らしをしているのでしょう。

 

少し想像力を働かせてみましょう。

表現の自由のない世界ってどんな世界なんだろう?

テレビや新聞は、国の政治をほめたたえる報道しかしません。

 

政治や権力にとって不都合な事実は報道しません。国会議員や公務員の不祥事なんて明るみにでません。

 

だから、国民は、生活は苦しくても、不自由な暮らしを送っても、国の政治に問題があるとは思いません。思っていてもいえません。

 

学校の先生も、国の政治は素晴らしいと教育します(そういう人しか学校の先生になれません、学校にいられません)。

 

暮らしに不満があっても、それは自分とは違う考え方の人たちのせい、どこかの国のせいだと思うかも知れません。

 

一見、統一化、画一化かされ、統制がととのった見た目はきれいな感じになるかも知れませんね。

 

見た目は美しい。一致団結。統制のとれた集団。

 

そこでは、多様性は否定される。異質なものは排除される。少数者の利益は無視される。

そんな流れになってきそうです。 

 

画一化された人々は、国家からの情報をもとに、国家を中心に、きれいにまとまっていきます。

実は、一人ひとりの幸せや良心は置き去りにされたことに、気がつかないままに・・・。

 

自分で自分の幸せを追求することの感覚がマヒしていきます。「これが国民の幸せなんだから、こうしなさい。」と幸せを国が教えてくれますから。 「そうなのかなあ」って。

 

画一化され、多様性が否定され、ベクトルの方向が一つにまとまった時、その方向へ、ぐんぐん進んでいきます。加速していきます。暴走していきます。「いけいけどんどん!」です。

 

国民の多くも気分は盛り上がってきて高揚してきます。「正義は我らにあり!」「平和のために、敵をやっつけよう!」なんていう気分になってきます。

 

国家=権力も、自由にものが言えない世界で、つくりあげられた国民の多数=世論に乗っかって、どんどん加速していきます。

 

こうして、国家=権力が暴走してしまっても誰も止めることはできません。暴走してしまっている時に、内心で「これは違うんじゃないかな。」「一体何のために、私達は、人を傷つけ、人から傷つけられたりしているのかな。」と疑問に思っても止められません。

 

国民が、政治の批判も含めて、言いたいことを言える自由がなければ、とても怖い世界になりそうな気がします。

 

実際、戦争につきすすんだ昔の日本では、これと似たような法律があって、国の政治を批判した人達が捕まり、批判することがおさえつけられました。

 

また、独裁国家では、これとにたような法律があります。

権力を掌握し、権力を維持、拡大する者にとっては、国民の「政治を批判すること」こそ苦々しいものはありませんからね。従順にロボットのように従ってくれる国民こそ「よい国民」でしょう。

 

権力をもつ者は、その性質上、批判されるのが苦手です。できれば批判されたくない。

批判する人を、力で押さえつけてやろうと思ったりしてしまう。 

 

そんな世界では、一人ひとりの幸せは、大切にされません。多くの人と違うこと、多くの人の考えと違うことは、嫌がられます。「そんなのわがままだ。」と一蹴されそうです。

 

みんなと同じ考え、みんなと同じ価値観、みんなと同じ好み、そうなるよう圧力がかかってきます。そしてみんな=国の考えとなっていく。

自分の幸せは自分で決め、求めていく。

自分のなりたい人になる。

好きなことを仕事にする。

やりたいことをやる。

そして、自分の良心に従って生きる。

 

そんなことは夢物語になるのかも知れませんね。

 

かつて、言いたいことがいえないことがあり、それで戦争につきすすんでしまった、戦争で多くの人々が悲惨な目にあったことをふまえ

日本国憲法は「表現の自由」を大切な人権として、定めました。

 

第二十一条 集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。

 

先に、国家=権力はとても大切なものであるが、間違ったり、暴走して、国民個人の自由や権利を侵害してしまうものなので、憲法で、国家=権力を縛る、コントロールするというお話をしました。

 

国家=権力を縛るという意味で、表現の自由は、とても重要な意味をもってきます。

 

国の政治や総理や国会議員の発言についてありのままに報道し、国民に情報を与えること。そして、国民が国の政治について意見を言い、「これはまずい」「こうした方がいい」と言えること、こうしてはじめて、国民が、国家=権力をコントロールすることが可能になってきます。

 

国家からの一方通行ではなく、国家と国民の双方通行が成り立ちます。

 

国家=権力の間違いや行き過ぎにブレーキをかけることが可能になってきます。

 

そして、表現の自由は、民主主義を支える自由として、大切なんですね。

 

みんなが言いたいことが言える、批判したりできることで、話し合いの場で、いろいろな意見がでてきます。多数派の人だけでなく、少数派の人も、どうしてそう考えるのが自分の意見を言うことができます。少数派の人の意見を聞くことで、多数派の人の意見も変わるかもしれません。また少数派の人の意見をふまえたルールを作ることができるかもしれません。

 

言いたいことを言える自由、表現の自由があってこそ「みんなのことは、みんなで話し合って決める」という民主主義が実現されます。

 

みんなが自由に意見が言えない状況で、安易に多数決で決めるというのでは、本当の民主主義は実現されません。

 

こんな大切な人権だから、憲法は、国家=権力に対して「これは、大切な人権だから、侵害してはダメですよ。守りなさいよ。」と縛りをかけているのです。

 

憲法は「あなた(国家=権力)は、放っておくとすぐ人々の表現の自由を制約しがちで、実際にも昔、言論を抑圧して、人々がとんでもない目になったことがあるでしょ。だから特に気をつけなさいよ!」と憲法は、国家にこの表現の自由を「侵害しちゃダメだよ!」と縛りをかけているのです。

 

国家は、法律を作るときに、国民の表現の自由を侵害する法律を作ることは、許されない、もし間違ってそんな作ってしまっても「無効」とすると憲法は、国家を縛っています。

 

それは、国民一人ひとりの表現の自由を守るために。

そして、国民一人ひとりの存在を大切にするために。

 

ですから、説例のような法律を国会で作ってはいけません。憲法に違反することになります。

 

第5時限目   民主主義と立憲主義3-個人の尊厳をまもるために

 

法律は、国民から選挙で選ばれた国会議員によって、議論され、多数決によってきまるものです。民主的な基盤がそこにある。

 

そんな民主的な基盤があっても、民主主義にそっていても、「政治を批判した人を刑務所に入れる」というような表現の自由を侵害するような法律は、決めてはいけない、多数決でも決められないこともあるいうことでした。

 

憲法は、この「表現の自由は、大切なものだから、国家は制限してはいけないよ!」と国家に縛りをかけています。

 

国家に縛りをかけるという考え方を立憲主義といいますが、国民の代表者からなる国会で多数決で決められないこともあるということは、立憲主義が、民主主義を制限しているという関係に立つといえます。

 

民主主義の目的は、国民一人ひとりを大切にするために、みんなの意見を反映させるということでしたが、いろいろな人がいて、どうしても多数派と少数派と別れてしまうこともありえます。

 

そして、多数決の場面で、多数派の意思にもとづいて国家や団体の意思決定がなされることになります。

 

そんな時、特定の少数の人に、一方的な不利益を与えてしまうかも知れません。負担を押しつけてしまうかも知れません。

 

多数派の人は、往々にして、少数派の気持ちは分からないものです。

 

そして、気持ちが分からないまま多数決によって、少数者の人の大切な自由を奪ってしまうかも知れません。

 

ナチスドイツのヒトラーって知っていますか。ユダヤ人の大虐殺とか、他国の侵略をした独裁者ですね。

 

ヒトラーは、突然独裁者になったわけではなく、国民の大多数の指示を受けて、権力者の地位につき、その政策を推し進めました。つまり民主主義にのっかっていたわけです。

 

でも、あのように自国民も他国の人にも大きな犠牲がでる結果となりました。

 

民主主義は、絶対ではありません。それだけでは間違ってしまうこともある。そして、間違ってしまったとき、大変悲惨な結果も起こりうる。

 

そんなことがないように、憲法は、多数決でも奪ってはいけない人権のリストをかかげました。これらの人権は、人が人として生きていくのに大切なものだから、多数決=法律でも決めていけないことを明かにしました。民主主義に制限をかけました。

 

憲法は、民主的な基盤をもつ国家=権力に対しても、「この権利、自由は、人権つまり人が人として生きていくために大切なものだから、侵害しないように注意せよ。」と縛りをかけているんですね。

 

そうすることによって、時に、多数決によって、侵害されることもある個人、特に少数者の人権を守ろうとしているのです。

 

皆さんは、「民主主義」って聞くと、正しいもの、いいもの、間違いないものって感じがしませんか?

 

「民意」とか「世論」というのはどうでしょうか?それには当然従わなくちゃいけないって感じになりませんか?

 

でも、与えられた情報とか、なんとなくといったムードとかで、「あの国(あの団体)感じ悪い、怖い、気に入らない。」といったような雰囲気が生まれ、多数意見が形成される可能性は否定できません。

 

ナチスドイツや戦争につきすすんだ過去の日本の経験も踏まえて 「民主主義は絶対ではない」としたところに大きな憲法の意味があります。

 

おそらく「民主主義=正義、絶対」となりがちなところだと思いますので、実は、そうではないんだ、限界もあるんだということを是非憶えておいてくださいね。

 

日本国憲法の究極的な目的は、個人の尊厳、つまり一人ひとりをかけがえのない存在として大切にすること、にあります。

 

第十三条 すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。

 

 

では、個人の尊厳確保のためにどうすればよいか?

 

歴史上、個人の尊厳を踏みにじってしまったのは、国家=権力でした。

 

国家権力は、安全を確保したり、社会秩序を維持したり、人と人との自由を調整したり、国民一人ひとりにとって大切なものではあります。必要なものです。

 

ですが、国家=権力は、その性質上、強大な権限、強制力があり、また強くなろう、大きくなろう、批判されたくないといった性質があるために、歴史上、間違ったり、行き過ぎたりして、個人の尊厳を踏みにじってしまったこともあったのです。 

 

いや、本当のところは、現在もいろいろなところで、間違い行き過ぎは起きてしまっています。皆さんは、えん罪事件って知っていますか?  

憲法は、国家=権力がそんな間違いを起こさないように、権力に対して向けられています。

 

国家=権力が、個人一人ひとりの個人の尊厳を害さないように国家が奪えない権利自由を人権のリストとして、憲法に掲げているのですね。

 

立憲主義は、民主主義を制限するものということですが、他方で、立憲主義と民主主義は、いずれもその目的は、個人の尊厳確保にあります。

 

つまり民主主義は、国家権力自体を、国民の意思が反映され、国民がコントロールるようなシステム、権力に民意を反映するシステムによって、権力による人権侵害をおさえようとしているのです。

 

国民自らが、権力について、影響を与え、批判を加え、権力側に参加する道もあるということで、自らの権利自由を制限しないようなルールをつくっていけることになります。

 

王様のような特定の人が決めるのと国民の選挙によって選ばれた代表者が話し合って決めるのとでは、どちらが国民個人の権利や自由にとって、よい法律が作られるかどうかを考えてみると分かるでしょう。

 

少数派の人達も、議論の中で自分の意見をいい、多数派の人達も少数派の人達の意見をよく聞くことで、個人の尊厳、少数者の人権を無視するような法律やルールを作ることを一定限度は防ぐことができるでしょう。

 

この点で、民主主義は、立憲主義と相携えながら、個人の尊厳確保を支えていると言えるのですね。

 

それに、前回、お話しましたが、表現の自由は、民主主義を支えるものです。自由な情報の流通があり、国政への批判も含めて、自由に話し合いができるからこそ、民主主義が維持できるのです。

 

ですから、表現の自由をふくめた人として大切な権利自由をまもろうとする立憲主義は、民主主義を支えるという関係にも立つのですね。 

 

まとめると

 

「立憲主義は、民主主義を支え、しかし、時に制限する。 そして、立憲主義と民主主義は、ともに個人の尊厳をまもるためのものである。」

 

ということなんですね!

 

最後までしっかりお話を聞いてくれてありがとうございました!

 

(おしまい)

如月(きさらぎ)の朝に。―日の出写真集

平成24年2月26日(日)

 

こんにちは。

神坪浩喜です。

 

気がつけば、2月ももう下旬。3月ももうすぐですね。

うちでは、今日あわてて雛人形を飾りました。

 

マリと朝の散歩をしているときに撮った日の出の写真です。

よろしければお付き合いください。

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2月4日立春の日の出です。
雪が少し積もりました。

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2月5日の日の出です。
快晴でお日さまがくっきり見えました。

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2月6日の日の出です。
丸く赤い太陽でした。

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2月11日の日の出です。
雲に日の光があたって
綺麗でした。

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2月12日のマリです。
「マリ!」と声をかけると「なに?」とこくびをかしげました。

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2月15日の朝です。
雲を透過するマイルドな日の出でした。

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2月18日の日の出です。
太陽の位置がかなり左(南から東)へ移動してきました。

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2月21日の日の出です。
お日さまの光が強くなって
きました。

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2月26日の日の出です。
黄金色に空が輝く瞬間がとても
好きです。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

 

あなたに明るい光が降り注ぎますように!

 

 

 ※1月の朝の写真集です。

初日の出から-冬の朝に2

民事調停について思うこと

神坪浩喜

1 調停のスタンス

  私は、調停には二つの軸があると思います。一つは、調停が話し合いの場であることです。 双方当事者の合意形成をめざすところであり、当事者が相手との対話を通じて、自分で考え、自らの力で問題解決をめざし、調停委員会はそのサポート役であるというものです。 もう一つは、裁判所の考え方や判断を示すところであるというもので、調停委員会が、お互いの言い分を聞いたうえで、調停案や17条決定を示す主体的な役割を担うものです。 

この二つの軸のどちらに重点をおくかは、事案や進行状況で変化しますが、私は、後者の意識を常に根底にもちつつ、前者の合意形成サポート、当事者による自律的解決を基本とするのがよいと思います。  

それは問題の解決にあたっては、誰かの意思に従うのではなく、自らの表現活動、相手との対話を通じて、自らの自由な意思決定に基づいて、問題の解決を試みるのがよいからです。 対話を通じて、合理的に物事を捉え、相手の立場や言い分も理解し、合理的な解決を自らの意思で選びとることができたらならば、その紛争は外形のみならず、心理的にも解決できたといえるでしょう。

 

  2 話し合いの場の設定

  調停の基本は、話し合いであり、当事者同士の自律的な解決を目指すということですから、当事者が安心して話し合いができる場を設定することがまずは重要です。

  そのためには、まず調停委員が当事者から信頼されなければなりません。信頼関係を築くことが大切です。当たり前のことですが、当事者の方に礼を持って接することが基本になります。 「申立人」「相手方」と呼ぶのではなく「○○さん」と名前を呼ぶこと、基本的に笑顔で接すること、そして話を聴こうとする姿勢を示すことが望ましいと思います。

話を聴いているというメッセージを送るには、「○○さんは、□□とおっしゃっているのですね」と要約できると効果的です。 心が開けば、言葉は相手の心に届きます。心が開かないうちに、いくらいい言葉を発したとしても、相手の心には届かないものです。 理屈の正しさも重要ですが、「この人がそう言っているのなら、間違いないだろう」と信頼してもらえると、解決可能性はぐんと高くなるものです。

  このような原則をおさえつつ、当事者の特性や価値観にあわせて、臨機応変に対応を変えて、信頼関係を築いていけるといいでしょう。

 

 3 合意形成のために

 (1)出発点―結論としての食い違いの確認

 話し合いの最終目標は、合意形成です。当事者双方の意思が合致したときに合意が成立し、調停が成立します。そこで、話し合いの場にたったときの双方の主張、出発点を明確にします。基本的には、求める結論は、申立の趣旨とそれに対する相手方の答弁で明らかにされていますので、その確認となります。出発点として、結論の食い違いの確認をすることは簡単なことですがとても重要なことです。

  申立人は、相手方に対して、いったい何を求めているのか(請求)を明確にします。 それを、相手方に伝えて、相手方がその希望に対して、どのように答えるのかを明確にします。紛争というのは、自分の期待と相手の実際とに食い違いがある状態です。相手が自分の思うとおりに、行動してくれない場合です。ただ、時に、調停の前の段階において、相手に対して、何を求めるのか伝えていない場合があり、さらには、自分自身の中でも相手に対して何を求めているのか混乱している場合もあります。そこで、調停の場において、申立人が相手に求めることを明確にして、相手方に伝えるだけで、相手も同じことを実は考えていたような場合には、その確認だけで合意形成に至ります。

申立人の請求を確認する場合には、表向きは金銭請求となっているものの、時に金額に現れない「思い」があることにも配慮が必要です。何かの慰謝料請求事件の場合、相手に真摯に謝罪してほしい、痛みを感じてほしいといった真意があり、相手方や調停委員会から「結局お金の問題だ」とまとめられてしまうのを嫌がることもあります。また、請求の背景にある「真意」、何のためにそれを求めているのかを探ってみると、実は食い違いがなかったこともあります。例えば、先の場合で、相手方として慰謝料としての金銭は手元になくあまり払えないが、真摯な謝罪はしたいと思っている場合には、その真意を双方に確認することだけで、合意形成ができることもあるのです。 ですから、形式上の請求とあわせて、その「真意」を確認する作業は、話し合いの出発点としてとても重要です。

 

 (2)結論に影響を与える食い違いを明らかにする

 双方の結論の食い違いを確認した後は、どうしてその結論に食い違いが生じるのか「結論に影響を与える食い違い」を明らかにしていきます。ここでの意識としては、当事者双方、調停委員会の三者が、「どこが食い違っているのか」について、共通認識を持とうとすることです。当事者それぞれに、結論を導く思考過程、理由、根拠となる書類を出してもらって、先方に伝えます。イメージとしては、同じ「まな板」の上に、それぞれが持つ情報を載せていってもらって、三者が共有する、同じものを眺めるという感じです。話し合いの目標は合意形成であり、紛争というのは、お互いの言い分に食い違いがある状態でした。食い違いの原因の主なものとして、それぞれが認識している事実、情報が異なっていることがあります。

すなわち、意思決定のメカニズムとして、人が、何かを判断する場合には、自分が把握している事実を前提として、それに自分の価値判断、人それぞれが持つ「自分フィルター」を通して、その事実を眺め、評価をして、意思決定を行うものです。ですから、判断となっている前提事実について、相手の出す事実が加わることによって、新たな判断材料としての情報が与えられ、判断が変化することもありうるのです。また、事実を相互に出し合うことで、食い違っているところだけではなく、共通のところも確認できます。共通の事実は、前提事実として、他の事実の推認に利用できますし、評価のよりどころになりえます。加えて、お互いに事実を出し合ったことで、意外に共通のところがあったりすることが確認できる場合もあり、それで先方への誤解が解けることもあるでしょう。

 

  (3)事実の食い違いと評価の食い違い

  結論に影響を与える食い違いの中には、事実認識の食い違いと評価の食い違いがあります。食い違いを明らかにする過程では、「事実と評価(意見)」のいずれの食い違いなのかを分けることです。例えば、交通事故の過失割合が争いになっている場合には、事故状況といった事実が争いである場合(停止していたか、青信号だったか等)、事故状況には争いがないもののそれに対する評価が違っている場合があります。

事実に食い違いがある場合には、いわゆる事実認定の問題として、主張する事実を裏付ける証拠や別の事実を土台に、社会通念に照らした経験則によってその事実があったのかなかったのか判断されます。意見や評価が食い違っている場合には、どちらの意見が合理的で説得力があるかにかかります。その支えとして、法令や裁判例が参考にはなりますが、いずれも社会常識がベースとなっており、調停委員の皆さまの豊富な人生経験・社会経験が活かされる場面です。 ですから、進行としては、事実が相互に食い違っている場合には、裏付けの証拠があればそれを出してもらうように促します。同じ事実をみながら、評価・意見が食い違っている場合には、意見のよりどころとなる理由を示してもらうようにします。

  評価の場面では、評価する人の価値観、感情が絡んできます。感情の取り扱いは実に難しいところですが、感情については「無視はしないが、分けてとらえる」というスタンスでいるとよいと思います。感情に巻き込まれないように、まずは合理的理性的な見方でどうなるかをふまえた上で、当事者の感情に配慮するということです。言い換えるならば、当事者の感情に寄り添いつつも、合理的理性的なものの見方を軸にして、話し合いを進めるということです。

そして、ここがポイントかなと思うのですが、双方の事実認識や証拠、意見と理由を出してもらう場面では、まだ評価を加えません。原則として当事者が出してきたものについて否定も肯定もしません。当事者がそういっているという事実だけを受け入れます。「○○さんは、○○とご主張されるのですね」と受け止めます。相手の主張を伝える際にも「○○さんは、○○とおっしゃっています」とあくまで相手の主張や希望に過ぎないことを伝えます。ここで、当事者に事実認識や証拠、意見やその理由を出してもらうのは、先方に判断材料としての新しい情報を提供して、当方の希望について検討してもらうためのものという位置づけになります。この場面でなぜ評価を控えるのかといいますと、ここで調停委員会が評価をしてしまうと、当事者の自律的な判断を阻害する可能性がありますし、否定的な評価をされた当事者は、調停委員は自分の言い分をよく聞いてくれない、相手に偏っているのではといった不満を抱きやすいからです。また調停委員会自体が自らの先入観にしばられて、事案全体を見渡した適切な評価ができない恐れもあります。

 

 (4)ボールのやりとり

双方の主張の根拠となる事実、評価について「まな板」に乗せてもらって、当事者双方の共通認識になった後、当事者のどちらか一方から「ボール」=解決案を投げてもらいます。先方から出してもらった情報や先方の評価や思いをふまえた上で、最初に出した主張から変化がないかを検討してもらい、話し合いによる解決に向けた新しい提案ができないかをたずねます。 

「○○さんの出した事実から、○○の点は了承しました。また○○さんが○○と考えていることも分かりました。しかし、○○の点は、やはり理解していただきたいので、○○という解決案ではどうでしょうか?」

  という感じで、解決案を出してもらうのが理想的です。ボールを最初に投げてもらう当事者に対しては、お互いにどの部分が共通で、どの部分が食い違っていて、食い違っている部分がどのような理由からなのかを、なるべく分かりやすく説明することにつとめます。

 調停委員が、改めて問題点を整理して、それを当事者に提供することによって、当事者が、自ら解決案を提案しやすくなります。当事者が、検討し、従前より、他方当事者の主張に歩み寄った解決案が提案されたのであれば、それを他方当事者に伝えます。当事者一方から他方当事者へ、話し合いによる解決に向けた「ボール」が投げられたことになります。

  この「ボール」を他方当事者に伝える際には、それは、あくまでボールを投げた当事者の「提案」であり「お願い」であることを強調します。当事者の方は、相手の主張を押しつけられること、要求をのまされると感じることを嫌がるものです。ですから、調停の折りに触れて、私は次ぎのようなお話をします。

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 調停は、話し合いであり、この場で、誰かが誰かに何かを強制することはできません。私たち(調停委員会)が、押しつけることもできません。ここでのやりとりは、すべて希望であり、提案であり、お願いになります。自分が投げた提案というボールを、相手が受けとめれば、それで合意が成立し、解決となります。相手が投げてきたボールを、自分が受けとめれば、それで合意が成立し、解決となります。相手が投げたボールを受けとめるのも、受けとめないのも○○さんの自由です。○○さんが、自由に選ぶことができるのですよ。相手からのボールを受けとめないときは、逆に○○さんから、相手に新しいボールを投げ返すこともできます。さて、今、相手の○○さんからボールが投げられました。 それは、○○という理由から、○○という希望です。○○さんは、相手が投げてきたボールを受けとめて、合意を成立させ、話し合いを終わりにすることもできますが、いかがされますか?それとも、それでは受けとめられないとして、○○さんの方から、相手に新しいボールを投げますか?

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 この「ボールのやりとり」をする際には、基本的には、個別に話しを聞いて、一方から他方へ伝えます。このボールを伝える際には、言葉を整えて、柔らかい表現にするようにして先方に伝えることがポイントになります。当事者の生の表現は、時に思いが強く、攻撃的なものになりがちです。その言葉を調停委員は、その言葉が出てくる気持ちも理解しつつも、相手に伝える際には、ダイレクトに伝えるのではなく、表現を柔らかくして伝えるようにします。それは、強い言葉、激しい言葉をダイレクトに伝えると、「なんだと!こっちだって!」となりがちで、解決案の冷静な検討ができないからです。

  例えば、金銭請求の場面で「100万円くらい払うのが当然だ。払ってよ」等と言っている場合に相手には、「○○の理由から、100万円を支払って欲しいというご希望です」と伝えたり、立ち退きの場面で「さっさと立ち退いてよ」等と言っているような場合に、相手には「○○の理由から、少しでも早く立ち退いてもらえないかというご希望です」と伝えたりします。そっくりそのまま伝えるのではなく、先方に合理的理性的に考えられるように言葉を整えるのです。調停委員が緩衝材となって、言葉を整え、整った言葉で、相手に伝えると、相手も冷静に考えやすくなります。「アダプター」というのがありますよね。パソコンや携帯電話の電源をコンセントからひいてくるときに必要なものです。 アダプターは、交流を直流にしたりして、電流を整えて、電圧を下げるものなのですが、調停委員もあの「アダプター」のようなものかなと思います。当事者一方からの言葉を、相手が合理的理性的に考えられるように、うまく整えて、伝えることができならば、話し合いによる解決可能性は高まる気がしています。

 

(5)合意形成を後押しする

  新しい判断材料をふまえて、当事者の一方から解決案とその理由を出してもらい、他方当事者に検討してもらうという形になることが一般的な進め方です。一方当事者が投げたボール(解決案)を他方が受け取れば合意成立です。受け取らないならば、今度は、自らが合意できるボール(代替案)を投げてもらいます。

ここでの調停委員会の役割は、まずは当事者自らが解決案を提示しやすいように、情報提供、問題点の整理といったサポートすることになります。提案の根拠となる、問題点の整理、相手の希望、その背景、共通の事実、そして、仮に訴訟で、判決をするとなれば、どういうところが問題となるのか、食い違っているのか、現在どのような証拠状況なのかについて、説明します。

 解決に向けたものの見方・考え方として、おおまかに2つのアプローチがあると思います。それは、①理屈の積み上げからどうなのか? ②全体の結論からどうなのか?です。 最終的な結論の妥当性とそれを支える理屈をバランスよく整えていくということです。

 例えば交通事故の事件では、治療費、慰謝料、休業損害等項目ごとに積算して、全体の損害賠償金額が出るものなのですが、被害者側で、慰謝料の金額については柔軟に考えられるが、過失割合は絶対に譲れないということもあります。そういったときに、加害者側で、全体の金額を重視しているような場合には、過失割合については被害者の主張にそって考えるが、慰謝料等について調整を行って、全体の金額について加害者側の希望も取り入れていくといった調整も可能になります。これは、どちらか一方だけではなく、二つとも意識してすすめるといいでしょう。事案の性質や進行状況、当事者の思い等を配慮して、公平で当事者が納得しやすい結論とその理屈を考えていきます。いきなり②の結論妥当性の視点から「ここらあたりでどうでしょう」とざっくりと言われてしまうと、いわゆる足して二で割るような解決の印象を持たれ、当事者に話を聞いてもらえないという不満が残りやすくなります。他方で①の理屈にこだわると、全体の結論はお互いにそう食い違いがないのに、まとまらないということになりがちです。 ①の理屈の積み上げを丁寧にやりつつ、②の全体からのアプローチをタイミングよくやると合意がまとまりやすい気がいたします。

  このボールのやりとりの段階では、調停委員会の評価は、控え目ではありますが、伝えることもあります。一方当事者の提案が、調停委員会の目から見ても合理的な解決案と思えるならば、合意を後押しするために、先方にその解決案が合理的なものであることを、言葉を選びながらそれとなく伝えていきます。

例えば、「申立人の□□さんは、100万円を支払うことで了承してくれないかという希望です。その提案について、ご了承されるかは○○さんのご自由なのですが、100万円ということであれば、中立的な立場にある私たちの目から見ても、○○の理由から、○○さんにとっても、決して悪い提案ではないような気もいたします。ご検討されてみてはいかがでしょうか」 というようなお話をします。

  すなわち、食い違いを明らかにし、まな板に情報をのせる段階では、調停委員会の評価は加えませんが、ボールのやりとりの場面では、調停委員会から、その案の押し付けにならないよう配慮しつつもものの見方、考え方を示して解決案の提案を後押しし、当事者から合理的な解決案がなされた場合には、先方当事者にその提案が第三者の立場からみても合理的なものであり、提案を検討してみてはいかがでしょうかと、評価を控えめながらも加え、合意形成を後押ししていくのです。慎重に言葉を選んで、ボールを受け取りやすいようにサポートしていきます。 

 

4 調停案の提案

 こうした当事者間のボールのやりとりによって合意形成が困難であれば、調停委員会から調停案を出すことを検討します。調停案を出すことについては、人それぞれの考え方があろうかと思いますが、私は、当事者間のボールのやりとりで、合意形成に至らなければ、調停案を出すことを原則にしています。調停案を出すということで、調停委員会はもとより、当事者にもよい意味での緊張感が生まれます。調停への主体的自律的参加を促進させ、ボールのやりとりの段階での合意形成の可能性も高まってきます。それに、当事者の中には、相手の提案をのむことは感情的に受け入れられないが、中立的な第三者の案、それも自分の言い分も聞いてくれた裁判所の案ならば、受け入れてもいいと思う方もおられるでしょう。 ですから、当事者間のボールのやりとりで合意に至らなかったからといって、すぐに不成立にするのではなく、調停案によって、合意形成の可能性がないかを探ることにします。

  両当事者から、調停案を提案することについて了承を得られたならば、調停案を出します。調停案を出す段階では、裁判所の調停委員会が提案するものですから、条理にかない、公正であること、証拠による事実認定と法令適用といった法的な判断であることは意識しなければなりません。提案にあたっては、評議を行い、食い違いがある点を中心に検討します。結論としての食い違い、その食い違いをもたらす食い違いについて確認の上、双方当事者が「まな板」にのせた情報を前提として、事実認定と法令適用を行い、社会常識に照らして、当事者の真意をふまえた上で、当事者間の紛争解決案として、どのようなものがよいかを検討します。

 解決案には、直線上のどの地点をとるかという解決だけではなく、直線上を離れた別の点での三次元的な解決方法がある場合もあります。 例えば、賃料増額請求の場面で賃借人が、賃料増額は絶対に受け入れられないが、一定の立退料をもらえば立ち退いてもいいと考えていて、かつ賃貸人でも「立ち退き料+立退き」がむしろ望ましいと考えている場合には、立ち退きを視野に入れた解決案を提案することも考えます。調停案提案の場面では、調停委員会は、話し合いのサポート役から、解決の道筋を主体的に示す役を前面に出していきます。「お二方がお話しされたこと、出していただいた書類をもとに、私たちがよく検討した結果、お二方にとって望ましいと思う解決案をご提案いたします」等と堂々と打ち出します。

  そして、この調停案が「私たちの」紛争解決方法として望ましいことを理解してもらうように説明します。 調停案の理由については、双方当事者の言い分や証拠をふまえて詳細にできると望ましいでしょう。  

理想を言えば、判決のように詳細に事実認定と法令適用を行って、調停案を聴く両当事者が「お互いに言い分を出しあって、裁判所がそれをよく検討して出した案なのだから、いいのだろう(仕方ないのだろう)。裁判になってもこのような結果になるのだろう」と思ってもらえることです。そうすれば、調停案にもとづく合意形成の可能性がぐっと高まるでしょう。

 

5 調停の進行について

 (1)積極的に仕切る

 進行については、私は、原則として調停委員会の側で積極的に仕切っていくのがよいと考えています。もちろん主役たる当事者の同意を得ながらではありますが、事件のポイントに切り込んで、テンポよく、進めていく方が、迅速であることはもとより、当事者間の自律的な紛争解決に資すると思います。どのように話し合いをしたらいいのか不安な当事者に対して、調停委員会の側で、話し合いの土俵とルールを積極的に提示していくと話し合いは活性化し、当事者も、合理的理性的な判断によって、自らの意思決定をやりやすくなると感じています。

  (2)進行の大まかな流れ

 初回期日では「あいさつ、自己紹介、出席者確認」→「調停の趣旨説明」→「調停本論」→「今日のまとめ」→「次回までの課題・作業(検討事項、書類の提出依頼)」になります。 

続行期日においては「前回のおさらい」→「課題・作業の確認」→「調停本論」→「今日のまとめ」→「次回までの宿題」となります。

 ポイントは、「まとめ」と「前回のおさらい」を実施することです。これをやることによって、進行に締まりが出てきます。今回の期日に何をしたのか、前回の期日にどこまで話し合ったのかが明確となって、その積み重ねで話し合いを進めていくことができます。

 連続ドラマでも、前回までのあらすじがあることで、すっと今日のお話に入っていくことができますよね。 簡単なことではありますが、これをやらないと何ら進展もないままに漫然と話し合いを続けてしまって「あれ、いったい今日は何をしたのだろう?」といった困った事態になりかねません。調停では「調停経過票」という書類を作成するのですが、円滑な進行のためには、そこにきちんと「この期日にやったこと」「次回までの課題」を明記しておく必要があります。

(3)進行確認、争点確認はできれば同席とする

  「まとめ」「おさらい」「宿題」といった進行確認については、当事者双方が共通認識を持ちやすいように、できれば同席調停が望ましいでしょう。 またお互いの言い分、双方の食い違いの確認についても共通認識をもってもらうのがいいので、できれば同席がいいと考えています。もちろん当事者が同席を望まない場合、感情的対立が激しい場合には、別席で確認作業を行います。

 

6 おわりに

 調停について、民事調停官としてわずか約1年という短い経験ですが、弁護士11年の経験とあわせて、思うところを率直にお話しさせていただきました。「調停は、互譲の精神で」とよく言われますが、序盤から「お互いに譲り合ってください」と言っても、通常、当事者の方は「譲るべきは、相手の方だ」と思って調停に臨んでいるものなので、なかなかうまくいきません。 お互いに結論の食い違いにかかる情報を提供しあって、意思決定の判断材料としての事実認識や先方の意見を聴く中で、ものの見方や考え方に変化が見られるときに、自らの意思決定を変えること、相手の考えに近づくこと、すなわち互譲ができるものです。

  冒頭で、調停は、自律的な紛争解決をめざす話し合いの場であるというお話をしました。 それは、人は、一人ひとりが自由な存在であり、誰かの強制や押しつけではなく、自らの自由意思にもとづいて人とのつながりを築くことができるし、人とのつながりにおいて起きたトラブルも自らの自由意思に基づいて相手と冷静に対話しながら解決することが望ましいという理念が根源にはあります。

しかし、紛争の渦中にいるとき、人はなかなか冷静に理性的に判断ができないものです。そのようなときに、合理的理性的に判断ができる人に、話をきいてもらい、問題点を整理してもらい、理性的で新しいものの見方、考え方を提案されると、自らも合理的理性的な判断がなされやすいのではないでしょうか。

 人は、人から影響を受けるものです。その意味で、調停委員という仕事は「合理的理性人」として全人格で勝負することを期待されている仕事なのかも知れません。とても難しく、責任の重い大変な仕事です。そんな大変な仕事をされる調停委員の皆さまに私からのお話が少しでもお役に立てれば幸いです。

 

民事調停の役割、立ち位置

民事調停について思うこと-その5 進行

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平成24年2月19日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

寒い日が続き、雪が積もったりもしますが、日差しがでるとその光の強さに、もうすぐ春なんだなあと感じます。

 

光が先に春を運んでくるのですね。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

民事調停委員の方に向けた民事調停についてのお話の続きです。今回が最終回となります。

 

 

前回までのお話で、民事調停は、基本的に合意形成をめざすこと、そのために、両当事者の希望を明確にした上で、双方の情報を提供しあうこと、新たな情報を仕入れた上で、解決案というボールのやりとりをしていくこと

当事者間のボールのやりとりで合意に至らなければ、調停委員会から調停案を出すことについてお話しました。

 

民事調停について思うこと-その4 調停案 

 

 

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○調停の進行について

 

 

(1)積極的に仕切る

 

進行については、私は、原則として調停委員会の側で積極的に仕切っていくのがよいと考えています。

もちろん主役たる当事者の同意を得ながらではありますが、事件のポイントに切り込んで、テンポよく、ぐいぐいと進めていく方が、迅速であることはもとより、当事者間の自律的な紛争解決に資すると思います。

 

どのように話し合いをしたらいいのか不安な当事者に対して、調停委員会の側で、話し合いの土俵とルールを積極的に提示していくと話し合いは活性化し、当事者も、合理的理性的な判断によって、自らの意思決定をやりやすくなると感じています。

 

 (2)進行の大まかな流れ

 

初回期日では「あいさつ、自己紹介、出席者確認」→「調停の趣旨説明」→「調停本論」→「今日のまとめ」→「次回までの課題・作業(検討事項、書類の提出依頼)」になります。

 

続行期日においては「前回のおさらい」→「課題・作業の確認」→「調停本論」→「今日のまとめ」→「次回までの宿題」となります。

 

ポイントは、「まとめ」と「前回のおさらい」を実施することです。

 

これをやることによって、進行に締まりが出てきます。今回の期日に何をしたのか、前回の期日にどこまで話し合ったのかが明確となって、その積み重ねで話し合いを進めていくことができます。

 

連続ドラマでも、前回までのあらすじがあることで、すっと今日のお話に入っていくことができますよね。

 簡単なことではありますが、これをやらないと何ら進展もないままに漫然と話し合いを続けてしまって「あれ、いったい今日は何をしたのだろう?」といった困った事態になりかねません。

 

調停では「調停経過票」という書類を作成するのですが、円滑な進行のためには、そこにきちんと「この期日にやったこと」「次回までの課題」を明記しておく必要があります。

 

 

(3)進行確認、争点確認はできれば同席とする

  

「まとめ」「おさらい」「宿題」といった進行確認については、当事者双方が共通認識を持ちやすいように、できれば同席調停が望ましいでしょう。

 またお互いの言い分、双方の食い違いの確認についても共通認識をもってもらうのがいいので、できれば同席がいいと考えています。

 もちろん当事者が同席を望まない場合、感情的対立が激しい場合には、別席で確認作業を行います。

 

 

○ おわりに

 

調停について、民事調停官としてわずか約1年という短い経験ですが、弁護士11年の経験とあわせて、思うところを率直にお話しさせていただきました。

 

「調停は、互譲の精神で」とよく言われますが、序盤から「お互いに譲り合ってください」と言っても、通常、当事者の方は「譲るべきは、相手の方だ」と思って調停に臨んでいるものなので、なかなかうまくいきません。

 

お互いに結論の食い違いにかかる情報を提供しあって、意思決定の判断材料としての事実認識や先方の意見を聴く中で、ものの見方や考え方に変化が見られるときに、自らの意思決定を変えること、相手の考えに近づくこと、すなわち互譲ができるものです。

 

 

冒頭で、調停は、自律的な紛争解決をめざす話し合いの場であるというお話をしました。

 

それは、人は、一人ひとりが自由な存在であり、誰かの強制や押しつけではなく、自らの自由意思にもとづいて人とのつながりを築くことができるし、人とのつながりにおいて起きたトラブルも自らの自由意思に基づいて相手と冷静に対話しながら解決することが望ましいという理念が根源にはあります。

 

人が自由な存在であるというのは、一人ひとりをかけがえのない存在として扱う日本国憲法「個人の尊重」の理念からくるものです。

 

しかし、紛争の渦中にいるとき、人はなかなか冷静に理性的に判断ができないものです。

 

そのようなときに、合理的理性的に判断ができる人に、話をきいてもらい、問題点を整理してもらい、理性的で新しいものの見方、考え方を提案されると、自らも合理的理性的な判断がなされやすいのではないでしょうか。

 

人は、人から影響を受けるものです。

 

その意味で、調停委員という仕事は「合理的理性人」として全人格で勝負することを期待されている仕事なのかも知れません。

 

とても難しく、責任の重い大変な仕事です。そんな大変な仕事をされる調停委員の皆さまに私からのお話が少しでもお役に立てれば幸いです。

 

 

ご静聴、ありがとうございました。

 

  (おしまい)

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5回にわたっての調停についてのお話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

民事調停官をやっていると、時に当事者の方々のお互いの思いや、言い分の板挟みになって、どのようにすればいいのか悩むこともあります。

  

しかし、調停が成立して話し合いによる解決ができたとき、当事者の方がほっとされる表情をみるのは実に気持ちがいいものです。

 

また、調停は、話し合いを通じて、自律的に人と人との間のトラブルを解決していく実践の場であり、私がやっている法教育と深く関連するものでもあります。

 

 

私の調停官の任期は、平成26年9月末までで、あと約2年7か月ですが、その中でまたいろいろと学ぶこともあるでしょう。

 

代理人としてついている弁護士さんの活動からも、「あ~なるほど」といろいろと気づくこともあり、勉強になります。 

 

この経験を、法教育や幸せに生きるための技術にフィードバックして、みなさんにもお伝えできたらいいなと思っています。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

15日、今年も法教育オリエンテーションを実施しました。

 

仙台弁護士会に新しく入った弁護士さんに、法教育というもののイメージを持ってもらって、もしよろしければ一緒にやりませんか?という趣旨のものです。

 

新人弁護士さん達に、昨年もやったS先生の「女王様コント」や「(景観美観地区に)高層ホテルを建てる?建てない?」のワーク等の簡単な法教育授業を見てもらいました。

 

今年も多くの新人弁護士さんに出席していただき、法教育について関心を持っていただけたようで嬉しかったです。

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それでは、また。

 

 

あなたが、幸せでありますように!

昨日はどこにもありません

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平成24年2月5日(日)

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

はやいものでもう2月になりましたね。

 

うちでも節分の豆まきをやりました。

今年も鬼役は、やはり私でした。

 

鬼は豆を投げつけられつつも、しばし落ちた豆を拾って投げ返し、意地の反撃をしていましたが、

 「もうそろそろ出て行ったら!」と冷たく言われ、玄関から厳寒の外へと逃げていったのでした・・・(泣)。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

さて、民事調停についての続きのお話はまだあるのですが、今日は、ある詩を紹介させてください。

 

 

有名な詩ですので、ご存じの方も多いかも知れませんが、よろしければ、私と一緒に、その温かな言葉を味わっていただければと思います。

 

 

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「昨日はどこにもありません」

 

三好達治

 

 

昨日はどこにもありません

あちらの箪笥の抽出しにも

こちらの机の抽出しにも

昨日はどこにもありません

 

それは昨日の写真でせうか

そこにあなたの立つてゐる

そこにあなたの笑つてゐる

それはきのうの写真でせうか

 

いいえ昨日はありません

今日を打つのは今日の時計

昨日の時計はありません

今日を打つのは今日の時計

 

昨日はどこにもありません

昨日の部屋はありません

それは今日の窓掛けです

それは今日のスリッパです

 

今日悲しいのは今日のこと

昨日のことではありません

今日悲しいのは今日のこと

 

いいえ悲しくありません

何で悲しいものでせう

昨日はどこにもありません

何が悲しいものですか

 

 

昨日はどにもありません

そこにあなたは立つてゐた

そこにあなたは笑つてゐた

昨日はどこにもありません

 

 

三好達治「測量船」講談社文芸文庫

 

=====================================

いかかがでしたか。

 

 

この詩は、昨日ではなく、今日を生きること、今この時を生きることの大切さを伝えています。

 

 

悲しいのだけど、辛いのだけど、それは昨日のこと、そして昨日はもうどこにもないこと、

だから今日は悲しくなんかない。

どこかそう自分に言いきかせているような感じもしますね。

 

 

ついつい人は、昨日の悲しみを引きずってしまって、今日という日も悲しい日にしてしまいがちです。

 

 

でも、この詩は「昨日の悲しみはもうどこにもありません」と言い切って、今日というこの一日を、昨日の悲しみで覆い尽くして、悲しい日になんかするんじゃないよと叱咤しているようです。

 

 

そして、過去に、昨日に辛いこと悲しいことがあっても、もうそれは昨日のこと、もうどこにもない昨日のことなんだから、今日、これから幸せになることだってできるんだよ!と優しく励ましてくれているようでもあります。

 

 

希望の光を感じさせてくれます。

 

 

 

そう、昨日はどこにもないのですね。

 

 

 

昨日の悲しみを、今日にまで持ち込む必要なんてないのです。

 

 

今日という一日を、明るく生きることだってできるのです。

 

 

もちろん、今日は昨日の続きであり、生まれてから今までの時の積み重ねによって、今の自分がここにいます。

 

すべては、つながっています。

空間においても、時間においてもすべてはつながっています。

 

 

「昨日があるから今日がある」

 

 

その積み重ねを、私たちは、生まれてから死ぬまで続けていきます。

 

だから、昨日の存在を否定する必要はありません。

それはそれで意味があったのです。

昨日の悲しい出来事は、あなたにとって何かの意味があったのです。

 

 

昨日の悲しみを含めて、今日のあなたを作っているのです。

その意味では、「昨日はたしかにある」といえます。

 

 

でも、昨日の悲しみで、今日を覆い尽くしてしまうことは、幸せに生きる上で望ましいことではありません。

 

生きるエネルギーを、過去の悲しみに費やしてしまうことは、もったいないことです。

 

 

生きるエネルギーを、過去ではなく、今を生きることに向けることができたならば、人はずっと幸せに生きられることでしょう。

 

 

だから、この詩は、過去に向いた心を「昨日なんてどこにもありません」

と今ここに目を向けさせようとしてくれているような気がします。

 

 

私たちが生きることができるのは、過去ではなく、昨日ではなく、今この時だけ・・・。

 

今この時だけしか、生きられないのです。

 

 

だから、今この時を大切に生きること。

 

 

実際のところなかなか難しいことですが、「どこにもない昨日」ではなく、「今日」に心を向けることができたらいいですね。

 

 

 

※関連のお話です。

 

それはコントロールできること?できないこと?

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

本編では、あたかも私が、過去を忘れ、前向きに今を生きることができそうな感じでお話してしまいましたが、

実は、とてもクヨクヨするタイプでした。

 

 

だからこそ、この詩には胸を打たれます。

 

 

受験浪人時代に読んだDカーネギーの「道は開ける」という本にも、悩みを解消するには「今日一日の枠のなかで生きる」ということで、昨日と今日を「鉄の扉」で遮断することを意識するといいと書いてありました。

 

悲しい出来事、辛い過去は、なかなか遮断できるものではありませんし、時に、落ち込むだけ落ち込んで、涙と一緒に流してしまうことも必要だとは思います。

 

 

でも、悲しいこと、辛い出来事があった日は、夜眠るときに「鉄の扉」で昨日を閉めて、朝、目が覚めたら、「昨日は終わった。さあ新しい一日が始まる」と今日という新しい一日を新鮮な気持ちで生きることができたらいいですよね。

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それでは、また。

 

あなたが、幸せでありますように!

民事調停について思うこと-その4 調停案

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平成24年1月30日(月

 

こんにちは。

 

神坪浩喜です。

 

今が、冬の底、一年で一番寒い時期ですね。

 

でも、毎朝、小犬のマリと散歩をして気が付くのは、日の出の位置が左に移動し、日の出の時刻が早くなり、

そして、お日さまの光が少しずつ強くなってきたことです。

 

春は、ちゃんとやってきてくれているのだなあ。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

さて、民事調停についてのお話の続きです。

 

前回までのお話で、民事調停は、基本的に合意形成をめざすこと、そのために、両当事者の希望を明確にした上で、結果の食い違いがどのような理由によるのかを事実、意見に整理していくこと、情報を「まな板」にのせていくこと

そして、解決案というボールのやりとりをしていくこと、その際には、言葉を大切に扱っていくことがポイントになることをお話しました。

 

 

================================

 

 

○ボールのやりとりの際の調停委員会の役割-解決案を出しやすくする、合意形成を促す

 

新しい判断材料をふまえて、当事者の一方から解決案とその理由を出してもらい、他方当事者に検討してもらうという形になることが一般的な進め方です。

 

一方当事者が投げたボール(解決案)を他方が受け取れば合意成立です。

受け取らないならば、今度は、自らが合意できるボール(代替案)を投げてもらいます。

 

ここでの調停委員会の役割は、まずは当事者自らが解決案を提示しやすいように、情報提供、問題点の整理といったサポートすることになります。

 

提案の根拠となる、問題点の整理、相手の希望、その背景、共通の事実、そして、仮に訴訟で、判決をするとなれば、どういうところが問題となるのか、食い違っているのか、現在どのような証拠状況なのかについて、説明いたします。

 

 解決に向けたものの見方・考え方として、おおまかに2つのアプローチがあると思います。

 

それは、

①理屈の積み上げからどうなのか?

②全体の結論からどうなのか?

です。

 

最終的な結論の妥当性とそれを支える理屈をバランスよく整えていくということです。

 

交通事故の事件では、治療費、慰謝料、休業損害等項目ごとに積算して、全体の損害賠償金額が出るものなのですが、被害者側で、慰謝料の金額については柔軟に考えられるが、過失割合は絶対に譲れないということもあります。

 

そういったときに、加害者側で、全体の金額を重視しているような場合には、過失割合については被害者の主張にそって考えるが、慰謝料等について調整を行って、全体の金額について加害者側の希望も取り入れていくといった調整も可能になります。

 

これは、 どちらか一方だけではなく、二つとも意識してすすめるといいでしょう。

 

事案の性質や進行状況、当事者の思い等を配慮して、公平で当事者が納得しやすい結論とその理屈を考えていきます。

 

いきなり②の結論妥当性の視点から「ここらあたりでどうでしょう」とざっくりと言われてしまうと、いわゆる足して二で割るような解決の印象を持たれ、当事者に話を聞いてもらえないという不満が残りやすくなります。

 

他方で①の理屈にこだわると、全体の結論はお互いにそう食い違いがないのに、まとまらないということになりがちです。

 

①の理屈の積み上げを丁寧にやりつつ、②の全体からのアプローチをタイミングよくやると合意がまとまりやすい気がいたします。

 

このボールのやりとりの段階では、調停委員会の評価は、控え目ではありますが、伝えることもあります。

 

 

一方当事者の提案が、調停委員会の目から見ても合理的な解決案と思えるならば、合意を後押しするために、先方にその解決案が合理的なものであることを、言葉を選びながらそれとなく伝えていきます。

 

 

例えば、

 

「申立人の□□さんは、100万円を支払うことで了承してくれないかという希望です。 その提案について、ご了承されるかは○○さんのご自由なのですが、100万円ということであれば、中立的な立場にある私たちの目から見ると、○○の理由から、○○さんにとっても、決して悪い提案ではないような気もいたします。ご検討されてみてはいかがでしょうか」

 

というようなお話をします。

 

 

すなわち、食い違いを明らかにし、まな板に情報をのせる段階では、調停委員会の評価は加えませんが、ボールのやりとりの場面では、調停委員会から、その案の押し付けにならないよう配慮しつつもものの見方、考え方を示して解決案の提案を促したり、当事者から合理的な解決案がなされた場合には、先方当事者にその提案が第三者の立場からみても合理的なものであり、提案を検討してみてはいかがでしょうかと、評価を控えめながらも加え、合意形成を後押ししていくのです。

  

慎重に言葉を選んで、ボールを受け取りやすいようにサポートしていきます。

 

 

○調停案の提案

 

こうした当事者間のボールのやりとりによって合意形成が困難であれば、調停委員会から調停案を出すことを検討します。

 

調停案を出すことについては、人それぞれの考え方があろうかと思いますが、私は、当事者間のボールのやりとりで、合意形成に至らなければ、調停案を出すことを原則にしています。

 

調停案を出すということで、調停委員会はもとより、当事者にもよい意味での緊張感が生まれます。

調停への主体的自律的参加を促進させ、ボールのやりとりの段階での合意形成の可能性も高まってきます。

 

それに、当事者の中には、相手の提案をのむことは感情的に受け入れられないが、中立的な第三者の案、それも自分の言い分も聞いてくれた裁判所の案ならば、受け入れてもいいと思う方もおられるでしょう。

 

 ですから、当事者間のボールのやりとりで合意に至らなかったからといって、すぐに不成立にするのではなく、調停案によって、合意形成の可能性がないかを探ることにします。

 

 両当事者から、調停案を提案することについて了承を得られたならば、調停案を出します。

 

 調停案を出す段階では、裁判所の調停委員会が提案するものですから、

条理にかない、公正であること、証拠による事実認定と法令適用といった法的な判断であることは意識しなければなりません。

 

提案にあたっては、評議を行い、食い違いがある点を中心に検討します。

結論としての食い違い、その食い違いをもたらす食い違いについて確認の上、双方当事者が「まな板」にのせた情報を前提として、事実認定と法令適用を行い、社会常識に照らして、当事者の真意をふまえた上で、当事者間の紛争解決案として、どのようなものがよいかを検討します。

 

 解決案には、直線上のどの地点をとるかという解決だけではなく、直線上を離れた別の点での三次元的な解決方法がある場合もあります。

 

 例えば、賃料増額請求の場面で賃借人が、賃料増額は絶対に受け入れられないが、一定の立退料をもらえば立ち退いてもいいと考えていて、かつ賃貸人でも「立ち退き料+立退き」がむしろ望ましいと考えている場合には、立ち退きを視野に入れた解決案を提案することも考えます。

  

調停案提案の場面では、調停委員会は、話し合いのサポート役から、解決の道筋を主体的に示す役を前面に出していきます。

 

「お二方がお話しされたこと、出していただいた書類をもとに、私たちがよく検討した結果、お二方にとって望ましいと思う解決案をご提案いたします」

と堂々と打ち出します。

 

 そして、この調停案が「私たちの」紛争解決方法として望ましいことを理解してもらうように説明します。

 

 調停案の理由については、双方当事者の言い分や証拠をふまえて詳細にできると望ましいでしょう。

  

理想を言えば、判決のように詳細に事実認定と法令適用を行って、調停案を聴く両当事者が

「お互いに言い分を出しあって、裁判所がそれをよく検討して出した案なのだから、いいのだろう(仕方ないのだろう)。裁判になってもこのような結果になるのだろう」

と思ってもらえることです。

 

そうすれば、調停案にもとづく合意形成の可能性がぐっと高まるでしょう。

 

 

(その5に続く)

 

 

===================================

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当事者が求めるものを明らかにする→まな板に情報をのせる→ボールのやりとり→調停案提案と、

当初はサポート役、黒子役だった調停委員会が、だんだんと前面に出てきて、「裁判所的」役割が強くなっていきます。

 

 

調停が、単なる話し合いではなく、「裁判所での」「調停委員が間に入る」話し合いの意味が強まっていきます。

 

 

調停は、あくまで、誰かに強制されることはない話し合いの場ではあるのですが、

裁判所への信頼やイメージを積極的に活用して、合意形成、自主的な紛争解決ができるといいなと思っています。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

27日、仙台弁護士会に新しく入会した弁護士さん対象の震災法律相談学習会の講師を災害復興支援特別委員会の相談チームのみなさんと一緒にやりました。

 

 多くの新人弁護士さんに出席していただき、嬉しかったです。

  

私は、以下のようなことを、学習会の最後にお話しました。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

新入会員のみなさん

 

 

2時間にもわたる学習会、大変お疲れさまでした。

 

みなさんは、弁護士として、被災者の方の何かに役に立ちたいと困っている被災者の方を少しでも助けることができればと、そう思って、被災地であるこの宮城を登録先に選ばれました。

 

ここでは、大震災によって、傷つき、困っている方がたくさんいらっしゃいます。

 

 

みなさんの助けを必要としている人がたくさんいます。

 

 

 

これまで勉強してきた法律の知識を活かして、そして今日のことを活かして、これから、被災者のみなさんの役にたっていってくださいね。

 

 

一緒にがんばっていきましょう。

 

 

本日は、ありがとうございました!

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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それでは、また。

 

 

あなたが、幸せでありますように!

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